ボーアとアインシュタイン4

著者:マンジット・クマール

発行:2013年3月

出版:新潮社

目次は“ボーアとアインシュタイン1”を参照ください。

28.数学的には等価だが物理的世界が異なる波動力学と行列力学

一度は断念したシュレーディンガーによる二つの量子力学の関係を明らかにする研究は、ついに実を結びました。

『1925年の春が夏に変わろうとするころには、古典物理学においてニュートン力学が果たしたような役割を、原子物理学において果たすべき理論―量子力学―は、まだ存在していなかった。ところがその一年後には、粒子と波ほども性格の異なる、ふたつのライバル理論が存在していた。しかもそれらの理論を同じ問題に当てはめてみると、まったく同じ結果が得られたのだ。ひょっとすると、行列力学と波動力学のあいだには何か関係があるのでは? シュレーディンガーは、画期的な論文を書き終えた直後から、そのことを考えはじめた。彼は二週間ばかり、ふたつの理論の関係を探ってみたが、何も見出せなかった。「結局、それ以上探すのは諦めました」と、シュレーディンガーはヴィルヘルム・ヴィ―ンへの手紙に書いた。関係が見出せなくても、彼は少しも困らなかった。なにしろシュレーディンガーは、「自分の理論がぼんやり頭に浮かぶよりだいぶ前から、行列計算には耐えられないと思っていたから」だ。しかし結局、彼は両者の関係をさらに追及せずにはいられず、ついに三月の初めに、それを発見する。

形の上でも、内容という点でも大きく異なる二つの理論―一方は波動方程式を用いて波を記述し、他方は行列代数を用いて粒子を記述する理論―は、数学的には同じものだったのだ。両者がまったく同じ答えを与えたのも当然のことだった。まもなく、形のうえでは異なっても、互いに等価であるようなふたつの方程式があることの利点が明らかになった。物理学者が出会うほとんどすべての問題で、シュレーディンガーの波動力学のほうが容易に答えを与えてくれた。しかしそれ以外の側面、たとえばスピンが関係する問題では、ハイゼンベルクの行列のアプローチのほうが役に立つことが示されたのだ。

かくして物理学者の関心は、理論の数学的形式から、物理的解釈へと移っていった。ふたつの理論のどちらが正しいのかという、起こっても不思議はなかった論争は、起こる前に息の根を止められたのである。ふたつの理論は、数学的には等価かもしれないが、その背後にある物理的世界は大きく異なっていた―シュレーディンガーの波はなめらかで連続的なのに対し、ハイゼンベルクの粒子は飛び飛びで不連続なのだ。シュレーディンガーとハイゼンベルクはふたりとも、自分の理論のほうが自然の物理的世界の姿を正しく捉えていると堅く信じていた。しかし、それに関するかぎり、両方とも正しいということはありえなかった。』

29.波動力学の限界

波動方程式はヘリウムやそれより重い原子に当てはめると視覚化は失われ、抽象的な多次元空間なってしまいます。また、光電効果やコンプトン効果を説明することができませんでした。物理学者でも苦労するような行列ですが、量子を幅広く説明するうえでは、ハイゼンベルクの行列力学の方が優れているようです。

『波動力学の波動関数は数学者のいう「複素数」なので、それを直接測定することはできない。複素数は、たとえ4+3iのように、実部と虚部をもつ。このとき実部は4で、普通の数である。虚部は3iである。このiには物理的な意味がない。なぜなら、それはマイナス1の平方根だからである。ある数の平方根とは、二乗したときにその数になるものだ。4の平方根は、2である。(2×2=4)。二乗してマイナス1になる数は存在しない。1×1=1だが、-1×-1もやはり1である。なぜなら、マイナス×マイナスはプラスだからだ。

波動関数を観測することはできない―波動関数は、見ることも触ることもできない観測不可能な雲のようなものだ。しかし複素数を二乗すれば、実験で測定できる量と結びついた実数になる。たとえば、4+3iを二乗すれば、25になる。シュレーディンガーは、電子の波動関数を二乗したもの、|ψ(x,t)|²は、場所xと時刻tにおける電荷の密度を表すと考えたのだ。

波動関数をそのように解釈することに関係して、シュレーディンガーは粒子の実在性に疑問を突きつけ、電子を表すために「波束」というものを導入した。電子を粒子と見なす立場には実験の強力な裏づけがあったにもかかわらず、シュレーディンガーは、電子は粒子のように「見える」だけで、じつは粒子ではないと論じたのである。粒子としての電子というイメージは幻想だ、と彼は考えた。現実の世界に存在するのは波だけであり、電子が粒子のように見えるのは、多数の物質波が重なり合い、波束を作っているからだ、と。空間を進む電子は、波束として進んで行く―ちょうど、一端を固定されたロープの他端を手に持ち、手首を動かして作ったパルスがロープを伝わって行くように。粒子状の波束ができるためには、その粒子に相当する小さな空間領域の外では、さまざまな波長の波が互いに干渉し、打ち消し合わなければならない。

粒子を諦め、すべてを波に還元することで、不連続性と量子飛躍の物理学を回避できるなら、それはシュレーディンガーにとって払う価値のある代償だった。しかしまもなく、彼の解釈は物理的に意味をなさないことが明らかになった。第一に、波束として表された電子は、バラバラに崩れてしまうのだ。もしもその電子を、粒子としてじっさいに検出されている電子と結びつけようとすれば、空間に広がった構成要素の波は、光の速度よりも速く進まなければならないことになる。

シュレーディンガーは、波束が崩れるのをなんとか食い止めようとしたが、手の打ちようがなかった。波速は、波長も振動数も異なるたくさんの波でできているため、それぞれの波が異なる速度で進み、波束はすぐに広がりはじめる。そのため、電子が粒子として検出されるときにはつねに、それぞれの波が瞬間的に一カ所に集中して波束にならなければならない―空間に広がっていたものが、一瞬のうちに、ある一点に局在しなければならないのだ。第二の問題は、波動方程式をヘリウムや、それより重い原子に当てはめようとすると、シュレーディンガーの数学の基礎にある視覚化しやすい世界は、抽象的な多次元空間へと消えてしまうことだった。

一個の電子の波動関数には、三次元の電子の波に関して知るべきことがすべて符号化されている。しかし、ヘリウム電子には、電子が二個含まれており、それらを表す波動関数は、普通の三次元空間のふたつの波ではなく、奇妙な六次元空間に生息するひとつの波になってしまうのだ。周期表の中で、ひとつの元素から次の元素へと順に進んでいくにつれ、電子は一個ずつ増えていく。そして電子が一個増えるたびに、新たに三つの次元が必要になる。そんなわけで、周期表の元素であるリチウムの波動関数は九次元空間を必要とし、ウランの波動関数ともなれば276次元もの空間に生息することになるのである。そういう抽象的な多次元空間の波は、シュレーディンガーが期待したような、連続性を回復させ、量子飛躍を駆逐してくれる物理的な実在の波ではありえなかった。

また、シュレーディンガーの解釈では、光電効果やコンプトン効果を説明することができず、そのほかにも、たとえば次のような問題に答えることができなかった。波束に電荷をもたせるにはどうすればよいのか? 波動力学は、純粋に量子的なものであるスピンを組み入れることができるのか? シュレーディンガーの波動関数が、日常的な三次元空間の中の波を表していないのなら、それはいったい何を表しているのだろうか? これらの問いに答えを与えたのがマックス・ボルンだった。

30.古典的確率とは異なる量子的確率を使って波と粒子を統合する方法

ボルンにとって量子の粒子性を否定することはできませんでした。それはゲッティンゲンで行われていた原子同士を衝突させる実験を通して、「粒子という概念の豊かさ」を実感していたからです。

『シュレーディンガーが、粒子性と量子飛躍は認められないと論じている点は、ボルンは到底受け入れるわけにはいかなかった。彼はかねてから、ゲッティンゲンで行われていた原子同士を衝突させる実験を見ており、「粒子という概念の豊かさ」を実感していたからだ。ボルンは、シュレーディンガーの方程式が優れていることは認めたものの、彼の解釈は受け入れなかった。ボルンは1926年の末に、「シュレーディンガーの形式だけを残して、そこに何か新しい物理的内容を盛り込むためには、彼の物理的描像はすっかり捨て去らなければなりません。彼の描像は、古典的な連続の理論を復活させようとするものです」と述べた。「おいそれと粒子を捨て去るわけにはいかない」と確信していたボルンは、波動関数の新しい解釈を考えるなかで、確率を使って波と粒子を統合する方法を見出すのである。 

画像出展:「量子論を楽しむ本」

『ニュートンの宇宙は完全なる決定論の世界であり、そこに偶然の出る幕はない。そのような宇宙では、粒子は与えられた任意の時刻に、はっきりとした運動量と位置をもっている。粒子の運動量と位置が時間とともにどう変わるかは、その粒子に作用する力によって決まる。』

『あらゆることが自然法則に従って進展する決定論的宇宙において確率が顔を出すとすれば、それは人間の無知の反映だった。もしも任意の系で、その系の現在における状態と、その系に作用する力が完全にわかっているなら、未来においてその系に起こることはすべて決定される。古典物理学における決定論は、すべての作用には原因があるという「因果律」の母体と、へその緒でつながっているのだ。

二個のビリヤードの玉が衝突するように、電子が原子に衝突すれば、その電子はあらゆる方向に散乱される可能性だある。しかし電子とビリヤードの玉との類似性が成り立つのはそこまでだ、とボルンは述べて、驚くべき主張をした。原子レベルの衝突に関して、物理学に答えることができるのは、「衝突後の状態はどうなるのか?」という問いではなく、「その衝突の結果として、所定の結果になる可能性はどれだけあるのか?」という問いだというのである。「かくして決定論という大問題が持ち上がる」と、ボルンは自ら認めた。衝突の後で、電子が正確にどこに存在するのかを知ることはできない。物理学者にできるのはただ、電子がある角度に散乱される確率を計算することだけだ、とボルンは述べた。それがボルンの言う「新しい物理的内容」であり、彼の波動関数解釈はすべてそこにかかっていた。

波動関数そのものには物理的実在性はない。波動関数は、ぼんやりとした不思議な可能性の領域に存在している。波動関数は、たとえば原子と衝突した電子が散乱されるかもしれない角度をすべて足し合わせたような、抽象的な可能性を表しているのだ。そのような可能性と確率とのあいだには、大きな違いがある。ボルンは、波動関数を二乗したもの―複素数ではなく実数―は、確率の領域に存在していると論じた。波動関数を二乗しても、たとえば、電子のじっさいの位置が得られるわけではない。それが教えてくれるのは、電子がどこに見出されるかの確率だ。もしも電子の波動関数の値が、場所Yでよりも、場所Xでのほうが二倍大きいとすると、電子がXに見出される確率は、Yに見出される確率よりも四倍大きい。しかし、その電子はXに見出されることもあるし、Yや、それ以外の場所に見出されることもある。』

『自分[ボルン]が物理学に持ち込んだ確率は、従来のものとはまったく異なるということにボルンが十分に納得するまでには、ふたつの論文のあいだに流れた十日間という時間が必要だったのだ。その奇妙な「量子的確率」は、情報の不足から生じ、それゆえ理論上は取り除くことができる古典的確率とは別のものである。それは原子の領域にどこまでもついてまわる性質なのだ。たとえば、放射性物質の内部で、放射性原子がいずれ崩壊するのは確実だが、個々の原子がいつ崩壊するかを予測することができない。それは情報が足りないために予測できないのではなく、放射性崩壊を支配する量子的なルールが確率的性質をもつためなのである。

31.アインシュタインとハイゼンベルク

1926年4月28日、ハイゼンベルクはベルリン大学での物理学談話会(コロキウム)の後、アインシュタインに「うちに来ないか」と誘われました。

『講義机にノートを広げ、黒板の前に立ったハイゼンベルクはカチカチに緊張していた。才気あふれる二十五歳の物理学者が硬くなるのも無理はなかった。1926年の4月28日水曜日、彼はベルリン大学の有名な物理学談話会(コロキウム)で、行列力学に関する講義をしようとしていたのだ。ミュンヘンやゲッティンゲンがどれだけの成果を挙げていようと、ハイゼンベルクがいみじくも「ドイツ物理学の牙城」と呼んだのはベルリンだった。聴衆を見渡しながら、ハイゼンベルクは最前列に並んだ四人のノーベル賞受賞者に目を止めた―マックス・フォン・ラウエ、ヴォルター・ネルンスト、マックス・プランク、そしてアルベルト・アインシュタインの面々である。

「そんなにたくさんの有名人と会える初めての機会」にどれほど緊張していたにせよ、「当時としてはかなり型破りな理論の基本的概念と数学的基礎について、わかりやすく説明」できたと我ながら思えるような話をするうちに、ハイゼンベルクの緊張はすぐにほぐれていった。講義が終わり、聴衆がバラバラと帰りはじめたころ、アインシュタインがハイゼンベルクに声をかけ、これからうちに来ないかと誘った。ハーバーラント通りを三十分ばかり歩きながら、アインシュタインがハイゼンベルクに尋ねたのは、家族のことや教育のこと、それまでの研究のことだった。いよいよ本題の議論が始まったのは、アインシュタインの家に着いて、ふたりがゆったり椅子に腰を下ろしてからのことだ。』

32.アインシュタインにとっての行列力学

量子物理学の歩みにおいて、アインシュタインは時に要所要所に存在する関所のような大きな存在だったようです。また、相対性理論の中でアインシュタイン自身が選択したものではありましたが、「観測可能な量だけからなる理論を見つけようとするのは、完全に間違っている」という考えは揺るぎないものでした。

『ハイゼンベルクの回想によれば、アインシュタインは、「きみの最近の仕事の、哲学的な前提」について尋ねたいと切り出した。「きみは原子の内部に電子が存在すると仮定しているが、それはおそらく正しいだろう」とアインシュタイン。「しかし、霧箱の中に電子の軌跡が見えてもなお、きみは軌道というものを認めないと言うのだね。なぜそんなおかしなことを言い出すのか、その理由をもう少し詳しく聞かせてもらえるだろうか?」。ハイゼンベルクにとってはチャンス到来だった。彼は、この四十七歳の量子論の大家を説得して、なんとか味方に引き入れたいと思っていたのだ。

「われわれは原子内の電子の軌道を見ることはできません」と、ハイゼンベルクは説明を始めた。「しかし放電現象では原子が放射を出しますから、そこから原子内電子の振動数と、それに対応する振幅を導き出すことはできます。そしてハイゼンベルクは持論を開陳しはじめた。「良い理論は、直接的に観測可能な量にもとづかなければならないのですから、電子の軌道の代わりに、振動数と振幅だけを使ったほうがよいと思ったのです」。アインシュタインはそれを聞いてこう言った。「しかし、物理理論には観測可能な量だけしか入ってこないなどと、本気で思っているわけではないだろう?」。それはハイゼンベルクが新しい力学を作る際に、基礎としたものを直撃する問いだった。ハイゼンベルクは驚いてこう聞き返した。「でも、それはあなたが相対性理論を作ったときに基礎とした考え方そのものではありませんか?」

アインシュタインは微笑んでこう言った。「うまい手は二度使っちゃいけないよ」。「たしかに、わたしはその考え方を使ったかもしれない」と彼は認めた。「それでもやはり、そんなものは馬鹿げた考えなのだ」。何がじっさいに観測できるかを考えてみることは、発見法的には役に立つかもしれないが、原理的な観点からは、「観測可能な量だけからなる理論を見つけようとするのは、完全に間違っている」とアインシュタインは言った。「なぜなら事実はその逆だからだ。何が観測可能かを決めているのは、理論なのだよ」。アインシュタインは何を言わんとしているのだろうか?

それよりおよそ百年前の1830年、フランスの哲学者オーギュスト・コントは、いかなる理論も観測に立脚しなければならないが、われわれの頭脳は観測を行うために理論を必要としてもいると論じた。アインシュタインは、観測というものは一般にきわめて複雑なプロセスであり、理論に使われている現象についての仮説もからんでくるということを説明しようとした。「観測している現象は、測定装置の内部で何らかの反応を引き起こす。その結果として、装置内でさらに別のプロセスが起こり、複雑な道筋を経て、最終的には知覚的な印象を生じさせ、われわれの意識に結果を定着させるわけだ」。その結果がどのようなものになるかは、どんな理論を使うかによる、とアインシュタインは言うのだ。「きみの理論にしたって、振動する原子から光が飛び出し、その光が分光器や観測者の目に届くまでのメカニズムは、誰もが仮定するように、やはり本質的にはマクスウェルの法則に従うと仮定しているわけだろう。もし、それすらも仮定しないというなら、きみが観測可能だと言っている量はすべて、そもそも観測できないのだから」。アインシュタインはたたみかけた。「つまり観測可能な量しか持ち込んでいないというきみの主張は、きみが定式化しようとしている理論の性質に関する、ひとつの仮説なのだよ。」のちにハイゼンベルクは、「アインシュタインのその意見には完全に意表を突かれたが、彼の議論には説得力があると思った」と述べている。』

『アインシュタインを説得できずに落胆しつつ辞去するとき、ハイゼンベルクは決断を下さなければならない案件を抱えていた。それから三日後の5月1日には、彼はコペンハーゲンにいる予定になっていた―ボーアの助手とコペンハーゲン大学の講師という、ふたつの仕事が始まるからだ。しかしつい最近、ハイゼンベルクはライプツィヒ大学から正教授として招聘されたのだ。彼のような若輩者にとって、正教授という申し出は非常に名誉なことだったが、はたしてその招きを受けるべきだろうか? ハイゼンベルクはアインシュタインに、この難しい選択のことを話した。ボーアのところに行って、彼といっしょに仕事をしなさい、というのがアインシュタインのアドバイスだった。翌日、ハイゼンベルクは、ライプツィヒからの申し出は断るつもりだと両親に手紙を書いた。「よい論文を書き続ければ、これからもお呼びはかかるでしょう。もしそうでなかったなら、もともと自分にはその価値がなかったということです」。』

33.ボーアとハイゼンベルク(量子の世界のあいまいさの核心、波と粒子の二重性の問題)

昔の日本の師匠と弟子のような関係だったボーアとハイゼンベルクにとって、最大の問題は古典物理学では考えられない「波と粒子が同時に存在すること」でした。ハイゼンベルクにとって数学を中心に組み立てた理論である行列力学は絶対的なものでしたが、ボーアは波動力学も重要であり、数学の背後にある物理を理解することを優先しました。「原子レベルのプロセスを完全に記述する理論、その理論の内部で粒子と波が同時に存在できるようにするための方法を見つけなければならない」と確信していたボーアにとって、粒子と波という互いに相容れない概念を調停することが、矛盾のない量子力学の物理的解釈へと続く扉を開けるための鍵と考えていました。

『1926年の5月半ば、ボーアはラザフォードへの手紙にこう書いた。「ハイゼンベルクがこっちに来ました。われわれは暇さえあれば、量子論の新展開や、この理論の大きな可能性について講論しています」。ハイゼンベルクはボーア研究所の、「壁が斜めになった小さな屋根裏部屋」に住み込んだ。部屋の窓からは緑のフェレズ公園が見えた。ボーア一家は、研究所に隣接する広々として豪華な所長邸に移っていた。ハイゼンベルクはしょっちゅうボーア邸に行っていたので、まもなく「ボーア家の人たちといっしょにいるのが当たり前のように」なった。』

『「ボーアは、われわれを苛んでいた量子論の困難について議論しようと、夜も更けてからわたしの部屋に来るのでした」とハイゼンベルクは語っている。ふたりが何より頭を痛めたのは、波と粒子の二重性だった。アインシュタインはその二重性をめぐる状況を、エーレンフェストへの手紙に次のように書いた「片手に波、もう片手には粒子! その両方が実在していることは岩のように堅い事実です。そして悪魔はそれを詩にするのです」

古典物理学では、記述すべき対象は粒子または波であって、その両方ということはありえない。ハイゼンベルクは粒子を使い、シュレーディンガーは波を使って、異なるバージョンの量子力学を発見した。行列力学と波動力学が数学的には等価であることが示されても、波と粒子の二重性について理解が深まったわけではなかった。問題は、次の疑問に答えられる者がいないことだ、とハイゼンベルクは言った。「電子は今このとき、波なのだろうか、それとも粒子なのだろうか? そして、わたしがこれこれの働きかけをしたとき、電子はどんな振る舞いをするのだろうか?」ボーアとハイゼンベルクが、波と粒子の二重性について懸命に考えれば考えるほど、ますます謎は深まるように思われた。』

『ハイゼンベルクはそのころのことを、後年、次のように回想した。「われわれの対話はしばしば真夜中過ぎまで続いた。そうやって何カ月も頑張ったにもかかわらず満足の行く結果が得られなかったので、ふたりとも消耗し、ピリピリした雰囲気になっていった」。ボーアはもう限界だと判断し、1927年2月に四週間の休暇をとり、ノルウェーのグドブランスダールにスキー旅行に出かけることにした。ハイゼンベルクはそれを、「絶望的に難しい問題について、ひとりでじっくり考えるチャンス」と受け止め、ボーアの出発を内心うれしく見送った。最大の問題は霧箱の中の電子の軌跡だった。』

画像出展:「アインシュタイン ロマン3」

34.ハイゼンベルクの不確定性原理

ハイゼンベルクは与えられた任意の時刻に、粒子の位置と運動量の両方を正確に測定することは量子力学によって禁じられていることを発見しました。そして、「何が観測でき、何が観測できないのかを決めているのは、理論だ」と考えました。

『ある晩遅く、研究所の小さな屋根裏部屋で仕事をしていたハイゼンベルクが、行列力学によれば存在しないはずの電子の軌跡が霧箱の中に見えるという謎について考えていると、思考がふらふらと彷徨いだした。すると突然、「何が観測できるかを決めているのは、理論なのだ」というアインシュタインの言葉が、こだまのように聞こえたのだ。自分は今、何かを掴みかけていると感じたハイゼンベルクは、頭をはっきりさせなければと思い、とうに真夜中を過ぎていたにもかかわらずフェレズ公園に散歩に出かけた。

ほとんど寒さも感じないまま、彼の考えはしだいに、霧箱に残された電子の軌跡とは実のところ何なのかという問題に絞られていった。後年、彼はそのときのことを次のように語った。「これまであまりにも安易に、霧箱の中では電子の軌跡が見えると言ってきた。しかしおそらくわれわれは、それほどのものは見ていないのだ。現実にわれわれが見ているのは、電子よりずっと大きいことのたしかな水滴の列にすぎないではないか」。こうしてハイゼンベルクは、なめらかにつながった軌跡は存在しないという確信を得た。彼とボーアは、問題の立て方を間違っていたのだ。問うべきは次のことだった。「電子がおおよそある場所にあって、おおよそある速度で移動しているという事実を、量子力学は記述できるのだろうか?」

急いで机に戻ったハイゼンベルクは、いまやすっかり手の内に入った数式をあれこれいじりはじめた。どうやら量子力学は、情報や観測可能性に制限を課しているらしかった。しかし量子力学は、観測できるものと観測できないものをどうやって決めているのだろう? その答えが不確定性原理だった。 

ハイゼンベルクは、与えられた任意の時刻に、粒子の位置と運動量の両方を正確に測定することは量子力学によって禁じられていることを発見したのである。電子の位置は測定できるし、電子の速度も測定できるけれども、その両方を同時に測定することはできない。どちらか一方を正確に知れば、自然はその代償として、他方に関する情報をあいまいにする。量子の世界にはある種の駆け引きがあって、一方が正確に測定されればされるほど、それだけ他方に関する情報や予測はあいまいになるのだ。ハイゼンベルクは、もしも自分の考え通りなら、不確定性原理によって課される限界を超えて量子の世界を正確に知ることは、いかなる実験によってもできないことを悟った。もちろん、その主張の正しさを「証明する」ことは不可能だが、実験に含まれるあらゆるプロセスが「量子力学の法則に従うはずである以上」、そうでなければならないとハイゼンベルクは確信した。

彼はそれから数日間、不確定性原理―彼の好んだ呼び方によれば、「不決定性原理」―がたしかに成り立っているかどうかを調べることに専念した。ハイゼンベルクは頭の中の実験室で、不確定性原理によれば許されない正確さで、位置と運動量を同時に測定できそうな「思考実験」を次から次へと考え出した。しかし、考えついたかぎりの例で計算してみても、不確定性原理は破れなかった。とくに、あるひとつの思考実験をやってみたとき、「何が観測でき、何が観測できないのかを決めているのは、理論だ」ということを証明できたという手ごたえを得た。』

35.不確定性原理を表す式、ΔpΔp≧h/2πとΔEΔt≧h/2π

ハイゼンベルクは二つの式の発見でジグゾーパズルは完成したと考えました。そして、その式は量子力学と古典力学の間に横たわる深くて根本的な違いを暴露するものでもありました。

『ハイゼンベルクは、ΔpとΔp(Δはギリシャ文字のデルタ)を、運動量と位置について得られる値の「あいまいさ」とすると、ΔpとΔpの積はつねにh/2π以上になることを示すことができた。その式で表せば、hをプランク定数として、ΔpΔp≧h/2πとなる。これが不確定性原理、すなわち、位置と運動量の「同時測定に関する不正確さ」の数学的表現である。ハイゼンベルクはもうひとつ、いわゆる「互いに共役な変数」であるエネルギーと時間の「不確定性関係」も見出した。ΔEを、系のエネルギーEを求める際のあいまいさ、Δtを、Eを観測した時間tのあいまいさとすると、ΔEΔt≧h/2πとなる。

当初、不確定性原理が成り立つのは、実験装置が技術的に未熟だからだろうと考える人たちがいた。いずれ装置が改良されれば、不確定性は消滅するだろう、と。そんな誤解が生まれたのは、不確定性原理の意味を明らかにするために、ハイゼンベルクが思考実験を使ったためだった。しかし思考実験とは、理想的な条件のもので、完璧な装置を用いて行う架空の実験である。ハイゼンベルクが発見した不確定性は、現実の世界に本来的に備わっている性質なのだ。原子レベルの世界で観測可能な量について、プランク定数の大きさにより規定され、不確定性関係により課される正確さの限界は、装置をどれだけ改良しても決して消滅することはない、とハイゼンベルクは述べた。この驚くべき発見の名前としては、「不確定性」や「不決定性」よりも、「不可知性」(unknowable)というほうがふさわしかったかもしれない。

◇不可知性:人間のあらゆる認識手段を使っても知り得ないこと。

36.波と粒子の二重性を受け入れるための相補性

ボーアにとっては波と粒子の二重性こそが量子の世界のあいまさの核心と考えており、シュレーディンガーの波束をハイゼンベルクの新しい原理と結びつけて考えていました。そのため、ハイゼンベルクの粒子と不連続性だけに立脚したアプローチには懐疑的でした。そして、ハイゼンベルクが不確定性関係に没頭していたとき、ボーアは「相補性」を思いついていました。

『ハイゼンベルクがコペンハーゲンで不確定性関係の意味を探ることに没頭していたとき、ボーアはノルウェーのゲレンデで「相補性」を思いついていた。それは彼にとって、単なるひとつの理論や原理ではなく、量子の世界の奇妙な性質を記述するために必要な、それまで欠けていた概念的枠組みだった。波と粒子の二重性という矛盾した性質は、相補性という枠組みの中にうまく収まりそうだった。電子と光子―つまり物質と放射―がもつ波と粒子というふたつの性質は同じひとつの現象の排他的かつ相補的なふたつの側面であり、波と粒子は一枚のコインの裏と表なのだ、とボーアは考えた。

相補性は、波と粒子という、古典的にはまったく異質なふたつの記述方法を、非古典的な世界を記述するために使わなければならないせいで生じた困難を、きれいに迂回するものだった。ボーアによれば、量子的な世界を完全に記述するためには、波と粒子の両方が必要不可欠であり、どちらか一方だけでは不完全な記述しかならない。光子と波はそれぞれ光について異なる絵を描き、それらふたつの絵は隣り合わせに壁に掛けてある。しかし、矛盾を避けるために制限が課されている。与えられた任意の時刻にわれわれに見ることができるのは、ふたつの絵のどちらか一方だけなのである。どんな実験を行っても、粒子と波が同時に見えることはない。ボーアは次のように主張した。「異なる条件のもとで得られた証拠は、一方の絵の中だけで理解することはできず、現象の総体のみが対象について得られる情報を尽くすという意味において、相補的なものとして捉えなければならない」

ボーアがその新しいアイデアに手ごたえを得たのは、ふたつの不確定性関係ΔpΔp≧h/2π、ΔEΔt≧h/2πに、波と連続性を嫌悪するハイゼンベルクには見えなかったものを見たときだった。プランク=アインシュタインの式 E=hvと、ド・ブロイの式p=h/λには、波と粒子の二重性が体現されている。エネルギーと運動量は粒子的な量なのに対し、振動数と波長は波の性質だ。つまりどちらの式にも、粒子の性質を記述する変数と、波の性質を記述する変数の、両方が含まれているのである。ひとつの式に、粒子と波の両方の性質が含まれていることがボーアには腑に落ちなかった。なんといっても粒子と波は、物理的に似ても似つかないものなのだから。

ボーアは、ハイゼンベルクの顕微鏡の思考実験の分析の間違いを正したとき、それと同じことが不確定性関係についてもいえることに気がついた。それに気付いたことでボーアは、相補的かつ排他的な古典的概念(粒子と波動、運動量と位置など)が、量子の世界でどこまで同時に矛盾せずに通用するかを教えているのが不確定性関係だ、という解釈に導かれたのだった。

また、不確定性関係は、エネルギー(不確定性関係の式の中のE)と運動量(p)の保存法則にもとづく記述(ボーアの言葉では「因果的記述」)と、空間(q)と時間(t)の中で出来事を追跡する記述(「時空的」記述)のどちらか一方を選ばなければならないことも意味していた。これらふたつの記述は、考えられるかぎりの実験を説明する際には、互いに排他的、かつ相補的な関係にあった。そこで、位置と運動量のような、互いに相補的な観測可能量を同時に測定しようとしたり、互いに相補的なふたつの記述を同時に用いたりすることには、自然界に本来的にそなわる限界があるのだ、とボーアは考えた。』 

画像出展:「陸上競技の理論と実践」

相補的を説明する例としては、「位置と運動量の関係」があると思います。

『ハイゼンベルクは、「粒子」、「波」、「位置」、「運動量」、「軌跡」といった古典的な概念は、原子の領域ではどこまでも無制限に使うことはできないと考えたのに対し、ボーアは、「実験データの解釈は、本質的に古典的な概念によらなければならない」と考えていた。また、ハイゼンベルクは、これらの概念は操作的に定義されなければならない(測定を介して定義されなければならない)と考えたのに対して、ボーアは、それらの概念の定義は、古典物理学でどのように使われているかによって初めから決まっていると考えていた。さかのぼって1923年のこと、ボーアは次のように書いた。「自然のプロセスに関する記述はすべて、古典物理学の理論によって導入され、定義された概念に立脚しなければならない」。不確定性原理がどんな限界を課そうとも、理論の成否は実験によって検証され、データ、論証、解釈は、すべて古典物理学の言葉と概念によって行われるという単純な理由から、古典的概念を別のもので置き換えることはできない、というのがボーアの考えだった。

『ボーアは電子と光線、すなわち物質と放射を観測するときに、粒子と波、どちらの面が現れるかはどんな実験を行うかによると考え、それについては一歩も譲るつもりはなかった。粒子と波は、基礎となるひとつの現象の相補的かつ排他的なふたつの側面なのだから、現実の実験であれ思考実験であれ、両方の面が同時に現れることはありえない。ヤングの有名な二重スリット実験のように、実験装置が光りの干渉を見るようにデザインされている場合には、波としての光の性質が現れるし、光線を金属表面に照射して光電効果を調べるためにデザインされた実験では、粒子としての光の性質が現れる。光は波なのか、粒子なのかと問うことには意味がない。量子力学においては、光の「正体」を知るすべはない。意味のある質問はただひとつ、光は粒子として「振る舞う」のか、それとも波として「振る舞う」のかということだ。そしてその質問に対しては、「実験の選び方によって、粒子として振る舞うこともあれば、波として振る舞うこともある」と答えることになる、というのがボーアの考えだった。』

ご参考Youtube“【スピリチュアルに騙されるな】量子力学と二重スリット実験【宇宙の真理】(6分40秒~19分17秒に二重スリット実験について解説されています。内容は高度ですが凄い動画です)