前回の「脳性麻痺 vs 脳性マヒ」に続き、今回は成瀬悟策先生の「姿勢のふしぎ」より、どのようにして動作法が生まれ、広がっていったのか、何故、動作法が心理療法なのか等についてお伝えします。
まずは、印象的な「まえがき」とそれに続く「世界初の成功例」に動作法の経緯や概要が語られています。
「姿勢のふしぎ」(講談社)
まえがき
『脳性マヒで動かないはずの腕が、催眠中に挙がったという事実に直面したのがことの始まりで、それ以来30年を経て今もなお、人の「動作」というもののおもしろさに取りつかれっぱなしの状態です。
脳性マヒによるからだの強烈な緊張を、脳・神経系から筋・骨格系への生理過程によって弛めるという当初の考えは、現実には役に立ちませんでした。そのからだの持ち主の心理的な活動によって自らのからだを弛めることで、初めて治療効果が上がり始めたのです。自己弛緩さえできるようになればと努めるうちに10年ほどが過ぎました。そして、自己弛緩だけでは不充分で、自らの意図どおりにからだを動かす要領を身につけることが必要とわかり、そのための訓練を続けるうち、また10年がすぎていきました。
それからの後の10年でさらにわかったのは、重力にそってからだを大地上にタテに立てることが必要であることでした。それは、からだを立てるための心棒、すなわち体軸をまっすぐに立てて自然に無理のない姿勢がとれるということです。そしてその状態から体軸のどの部位でもそれを柔軟に屈げたり伸ばしたり、反らしたり捻ったりしながら、上体部、手腕、脚足を前後左右に使いこなせるようになることが課題となりました。
こうして、脳性マヒで肢体が不自由な人のための動作訓練がいちおうまとまりかけた頃、同じ方法が自閉症や多動の子にも有効であることがわかり、この「動作法」が心理療法として大展開することになりました。精神分裂病を始め、さまざまな症状を示すクライエントの治療で予想外の効果を得られることが確かめられたのです。現在では「動作療法」として全国規模の学会まで開かれるようになりました。
肩や腰などに起こる強い緊張は、肢体の不自由な人特有のものではなく、一般の人にみられる猫背や側弯、腰痛や肩凝り、四十肩、五十肩、外反母趾などの原因でもあることがわかり、また新たな展開が始まりました。そうした悩みを解消する健康法として「動作法」がきわめて有効だからです。また、これといって特に悪いところもないのに立つのがつらい、歩けないなどと訴える高齢者にも、このうえない援助ができるようになりました。』
世界初の成功例
『今からちょうど34年前(1964年)のこと、埼玉県の身体障害者厚生指導所という施設に勤務していた小林茂さんからすばらしい報告が届きました。脳性マヒで動かなかった16歳の男の子の右腕が、催眠暗示による訓練で真上まで独りで挙げられるようになったというのです。これは脳性マヒの分野でも、催眠の分野でも共に有史以来初めての試みで、しかも世界初のすばらしい成功例になりました。
脳性マヒというのは出産時、ないしその前後の時期に発達中の脳に生じた病変のため、随意筋のコントロールが失われたり、肢体が不自由になったりするような、運動能力の永続的な障害とされています。出産前後というのは受胎から新生児期、すなわち生後4週までの間に生じた脳の病変が原因ですから遺伝によるものではありません。死滅した脳細胞が再び蘇ることはないので、この病変が元通りに治癒されることはありません。この病変はそのまま残りますが、それ以上に悪化しないため、非進行性といわれています。
この脳の病変のため、手足やからだの動きが自由にはできないことを肢体不自由といい、脳性マヒの人にみられる運動障害の代表的なものです。その当時までは、脳の病変が治らないのだから、その結果からくるマヒも運動を司る神経系の障害からくる麻痺と同じように、もはやよくなることはないものとされていました。
この子たちの処置は、これまでもっぱら整形外科で扱ってきました。脳性マヒの子は随意筋のコントロールが悪く、ことに関節を動かすため相拮抗して働く伸筋と屈筋がアンバランスで、伸筋が強すぎれば伸びて突っ張るし、屈筋が強ければ屈曲して伸ばせなくなるのです。この強すぎるほうの筋や腱を切ったり延長したりする手術が整形外科学での処置法です。手術直後はいくらか動きやすくなることもありますが、手術の傷が治ればまた元の突っ張りや屈曲に戻る傾向があります。
神経生理学では脳性マヒの不自由がそうした拮抗筋の障害ではなく、それを支配する脳・神経系からの命令が不適切なためだから、その命令の出し方を変えないかぎり、いくら筋や腱を手術しても元に戻るのは当然とみます。むしろ、中枢神経系内の原始反射運動の異常反射のパターンを抑制もしくは除去して、正常反射パターンを促進させ、さらに強化する神経活動のパターン・トレーニングが必要だというのが神経生理学的な機能訓練の考え方です。でも、反射運動の正常化だけで、日常生活における複雑な動作までできるようになるとするのは無理でしょう。』
肢体不自由
肢体不自由については次のような説明がされています。
『脳性マヒの子がからだを自由に動かせないのは、そのからだの持ち主である主体が、自分のからだを動かす心理活動をうまくできないためであることがこれまでにはっきりしてきました。彼らの直面している難しさは、握手しようと思い、それができるように懸命に頑張るにも関わらず、その結果として現実に現れてくるからだの動きは、どんなに頑張っても握手とは違った動きになってしまうことでした。例えば主体が「握手しよう」と思い、あるいはそうしたいと欲するとき、その動きについての「意図」が生じたといいます。その意図を実現できるように身体部位を特定し、実現しようと「努力」するのですが、どんなに努力しても、結果としての「身体運動」の現れ方、すなわち動きのパターンは、最初に意図し、心にイメージとして描いた握手という動きのパターンとはどうしても食い違ってしまいます。だからこそ「肢体不自由」ということになるのです。からだを動かすプロセスをこれまで脳性マヒの子でみてきましたが、プロセスそのものは彼らとふつうの私たちとの間にちがいがあるわけではありません。』
さらに、例を出し分かりやすく説明されています。
『肢体不自由は自動車の運転になぞらえれば、車そのものはよく走るのに、運転手が未熟なので車が思ったように走れないのに似ています。これは脳性マヒの子たちが、意図を実現しようとする努力の仕方がうまくないためで、彼らにその適切な努力の仕方をいかに身につけられるように援助できるかが私たちの課題になってきます。』
つまり、肢体不自由とは、「動く。けれども、思うように動かせない、コントロールできない」という状態であると理解しました。
心理療法
以下に4つの文章を引用しています。ここには、心理療法といえども、からだに起きている不調に目を向け、安直に心理面だけを取り上げたり、病名に頼るべきではないことが指摘されています。そして、多くの場合「緊張」が存在し、その「緊張」が心身両面に大きく関わっていること、そして自らが緊張している心身を取り除けるようになることが重要であると説明されています。
『心理療法を求めてくるクライアントのほとんどが、自分の主たる問題として訴えてくるのがからだの不調のあれこれで、その多くは自分のからだの緊張や動きに関わるものです。からだが重たい、だるい、突っ張る、かたい、痛い、やる気がしない、動きが鈍くなった、動かせない、力が入らない、疲れやすい、足元が定まらない、からだが宙に浮いているようだ、自分のからだでないような感じ、自分がやっているという気がしない、操られている等々、動作とそれについての体験に問題のあることを訴えているのです。したがって、何はともあれそれらを、日常生活における主体の動作にかかわる努力と体験の問題として取り扱わなければならないはずなのに、実際にはそれを詳しく調べもせず、動作から目をそらそうとするのが普通のようです。その訴えを聞きながら、セラピストはそれ自体の重要性を無視して、それをそのまま直接の対象とせず、そうなった本当の問題はその背後にあるとし、別の問題にすり替えて解釈しようとします。それには二通りあって、一つはそれらの訴えを生理的、病理的なものとして受け取り、身体疾患の症状探しに取り掛かり、それが原因であろうとなかろうと病気の治療に結びつけようとします。他の一つは、その背景に何らかの心理的な問題があるものと受け取り、セラピスト各自のよって立つ治療理論や学派の教えに従って、無理矢理に心の古傷やいやな体験を探したり、親子関係や家庭環境、人間関係をその原因に仕立て上げようとします。その結果、治療者からの暗示や当人の思いすごしで本物の病気になってしまったり、いやおうでも過去のエピソードや家庭環境、社会関係を原因にさせられてしまいかねません。もちろん、からだの病気が原因のこともあれば、心理的な外傷体験が無視できないこともなくはないでしょう。しかし、あまりに型通りの安易なすり替えによって、ほんとうの問題がおそろかにされてはなりません。』
『心理療法を求めてくる人は、そのほとんどがからだのどこかに習慣的ないし慢性的な緊張がみられます。心の不安、不調や悩み、無理や努力のしそこないなどが緊張となって現れているのです。それは肩や背中、腰など全体にわたるものから、肩だけ、腰だけというもの、指圧でツボといっているようなある小筋群だけに局部限定的にみられるものまで様々です。緊張はほとんど意識に上らない努力によるものですから、当人自身はそこが緊張しているとは気づいていません。意識的な体験としては、力が入らない、動かせない、きつい、凝る、重い、痛い、自分の身体でない、空洞のようだなどと感じています。そうした緊張を他者による物理的、化学的な処置で弛緩する方法は従来からたくさんありますが、大切なものはそうしたものでなく、自分で自分のからだを弛めるという自己弛緩です。それにはまず自分のからだの緊張に気づくこと、そこへ意識努力で力が入られること、入れた力を抜いていくこと、その部位が動かせること、力を抜いたり動かしたりする感じがわかること、それに伴って自体を弛めながら、弛んでいく感じ、弛めていく感じ、その弛緩の感じをじっくり味わいながら、局部からその周囲、他の緊張部位、さらには全身を弛緩させる感じ、全身がリラックスしている感じなどがわかるように進めていきます。』
『不当な緊張が現れやすい部位:自体軸をタテ直へ立てようとする意識努力のしそこないとして生じやすい随伴緊張は、姿勢の歪みとしてさまざまな身体部位に現れますが、最も一般的に広くみられるのは肩と腰、およびその両者を連結する背中です。それらを含む躯幹部が中核となって、それの接続する頚、手腕、脚足などへと随伴緊張が波及します。そうした不当緊張の結果として、からだに現れる不調や悩みの中には肩凝り、腰痛、側弯、四十肩、五十肩、背中の痛み、頭痛、脚足痛、尖足、外反母趾などがよくみられます。これらの痛みや不調、悩みなどの主たる原因が特定部位の不当な随伴緊張であり、そこに居座る無意識努力による随伴緊張を意識努力に変換して、それらの部位の緊張を自分でリラックスできるようになり、あるいはそれまで思うように動かせなったその部位が自由に動かせるようになるにつれて、急速に減退し消滅するということは、私たちの経験から明確に証明されてきました。そうしたからだの痛みや不調が自分のからだを自分で弛め、自分で動かせるようになることで快癒するという事実から結論すれば、それらはこれまで生理的な不調として誤解されやすかったのですが、実はそれが無意識努力という主体の心理的なそれであることをあらためてここに強調しておかねばなりません。』
『「弛んだ筋群」よりも「弛めようとする自己活動」が重要:他者による弛緩は、そのとき限りの筋弛緩には役立つとしても、その刺激がなくなれば元に戻るだけでなく、その刺激に対する生体としての耐性が高まるので、繰り返しによって弛緩効果はだんだん低下してしまうのです。他者に頼っていては駄目で、結局自分で自分を弛める自己弛緩でなくてはならないことがわかってきたのです。自己弛緩は繰り返せば繰り返すほど自分の弛め方が上手になるからです。緊張が減少した後者では、自分で弛めていく感じ、そのための努力の仕方、それに伴うからだの感じ、それらをコントロールしていく自分自身の感じなど、自己弛緩の体験を中心に進めたのです。こうした経験からわかったのは、「弛んだ筋群」が重要なのではなく、「弛めようとする自己活動」が目的にならなければならないということでした。』
マッサージの価値と課題 (「小児障害マッサージ」にリンク:中段以降を参照ください)
・マッサージは主に局所における循環作用と、自律神経や脳脊髄神経の神経反射による作用があり、緊張を和らげること、あるいは弛緩した筋に緊張を与えることが可能です。一方、動作法の目標が自分で弛め、緊張を取る」ところにありますので、施術を行うだけでなく、動作法を理解した上で「セルフケア」という視点から、その対応を考える必要があると認識しました。
追記
動作法の具体的な方法については、ブルーバックスシリーズの「リラクセーション―緊張を自分で弛める法」にあるようで、それについても拝読しようと考えています。