今回の「ユングと共時性」は9月30日、10月7日の「宗教と科学の接点」の続きともいえるものです。この本の中で最も気になったキーワードが“共時性”だったのですが、今回の「ユングと共時性」という本の中に、知りたいことが書かれているのではないかと思い購入しました。
著者:イラ・プロゴフ
訳者:河合隼雄、河合幹雄
出版:創元社
発行:1987年9月
画像出展:「ユングと共時性」
ユングの晩年、『非因果的関係の原理としての共時性』を発表したころのユング。
目次
Ⅰ 多重的宇宙の解釈 ―ユングとティヤール・ド・シャルダン―
Ⅱ 共時性と科学と秘教
Ⅲ ユングと易をたてたこと ―個人的経験―
Ⅳ 共時性の基礎
Ⅴ 因果律と目的論を越えて
Ⅵ ライプニッツと道
Ⅶ 元型と時間の様式化
Ⅷ 超心理的事象の共時的基礎
Ⅸ 共時性の働き
Ⅹ アイシュタインとより広い見解
Ⅺ 共時性から超因果性へ
注)Ⅶには触れていません。
Ⅰ 多重的宇宙の解釈 ―ユングとティヤール・ド・シャルダン―
●科学は限定された合理主義の言葉で表現されるものではなく、科学は物事を知ること、すなわち、人間の行なう知識の探求すべてと考えられる。この考え方(精神)によって、ユングは、理論物理学の研究と彼自身の深層心理学の研究の間には、一致、少なくとも相似が存在するという直観により、自ら“共時性(synchronicity)と名づけた「非因果的連関」の原理を1920年代後半に形作り始めた。
●共時性の概念は、元来彼の、深いレベルでの自己(Self)の研究から生まれたものである。それも特に、人生という旅の中で運命を変えることに関わる、いくつかの経典および注釈―ことに東洋のもの―の中に彼が見出した解釈法と、夢の中での出来事の進展との相互関係にユングが注目していたことによるものである。
●ユングが自分の仮説を系統立てて説く契機となったのは、物理学者ニールス・ボーア、ヴォルフガング・パウリとの接触と、アルバート・アインシュタインとの早くからの親交であった。ユングは彼らと対話するうちに、物理学の世界での基本単位としての原子と、人間の“心(:サイケ[psyche])”が等価であることに気づいたのである。特に人間の深層についての特有の手がかりとして発展させた、“心”という概念に、原子をたとえる時に、その一致度は特に強くなる。
画像出展:「シュレーディンガー その生涯と思想」
第五回ソルヴェイ物理学会議
・期間:1927年10月24日~10月29日
写真は中央の列向かって右端がボーア、3列目右から4人目がパウリ。前列右から5人目がアインシュタイン。
●ユングの研究のひとつの根本的な結果は、共時性の概念である。
●ユングは共時性を科学的な世界観におけるギャップを満たす手段として、ことに因果律に対するバランスとして提出した。共時性は、物理的な現象と同様に非物理的な現象をも含んでおり、これらの現象を、これらの相互の間の非因果的であるが意味のある関係のなかに認めることである。
●核心はユングが、人間の心は意識のレベルよりさらに深い層で関わっている現象を、理解可能とする説明原理を打ち立てることに従事していたことである。
●我々はユングから発展性のある二つの仮設を得ている。精神圏の内容についての仮説と、精神圏の作用原理についての仮説である。
Ⅱ 共時性と科学と秘教
●ユングは共時性原理についての論議を、理論物理学の枠組みのなかに位置づけ、そして、他方では科学以前の時代の種々様々な秘教やオカルトの教えを、宇宙のなかに共時性原理が存在することに対する人間の直観的理解を暗示するものとしてして言及している。合理的な科学と非合理的な秘教という二つの知識の源泉は、相いれないように思えるが、これらは両立する。ユングの目的の一つは、それらの共通の特質と相互の関連を、我々に見させることにある。
しかし、異質な材料を一つの議論の中に入れ込んだために、ユングの理論は、より因習的な人々にとっては、混乱を起こさせるもの、疑わしいものとなった。そして、そのことにより共時性はほとんど注目されなかった。
●秘教の教えと手法の多様な形式へのユングの興味は、それらが、若干のあいまいな方法で人間の経験の「内面」を表現しているというユングの洞察に根差してきた。それらは文字通りに受け取るべきではなく、夢のようなものとして受け取るべきであり、それ自身の生来の象徴的意義の文脈の中で自らを語る機会を与えるべきものである。ユングはまさに、秘教やオカルトに、各々の知恵の固有のスタイルを語り、露にする機会を与えようと企てた。彼はこれを錬金術(Alchemy)から禅(Zen)へと文字通りAからZに至る、これらの主題についての本を、解釈し紹介することによって行った。そのなかには、占星術、死者の書、タロ、易経、そして他の多くの古代東洋の原始的な教養が含まれていた。
●共時性は人間の運命の本性に関連する教えへの扉を開く鍵となることができる。この点において、共時性はこの世の生における神秘的な次元に対する鍵であるだけでなく、その背後に存在する現代科学の経験に対しても、鍵となるという特別な利点をもっている。
●ユングは著書の中で極めて率直な記述と、後からその大胆な彼の論点の衝撃を柔らげる否認と緩和とが交互に現れる。このことがユングの著作に認められる曖昧さの原因となっている。
●この本(「ユングと共時性」)は、ユングの共時性の概念を、より大きな哲学と理論的根拠とに関連させて記述し説明し、そして、この複雑な問題の本質を可能な限り明確に紹介するためのものである。
●共時性は二つのレベルで重要である。理論レベルでは、展開する宇宙のなかでの人間の経験の本質に関する、意識の新しい次元を開く。また、経験的レベルでは、人間の人生と運命の最も捉えがたい相のいくつかを、事実に基づいて研究する道を与えるものである。
Ⅲ ユングと易をたてたこと ―個人的経験―
●ユングが研究したすべての秘教のなかで、易経は、最も明確に共時性原理を表出しており、また、最も洗練された形式でそれを応用しているものである。
●リヒャルト・ヴィルヘルムが翻訳した中国の錬金術の本が「黄金の華の秘密」である。ユングがこの本に払った苦心は、主要な心理学的概念を発展させるための重要な源となっている。特に、ユングが「共時性」を初めて公に使ったのが、1930年のリヒャルト・ヴィルヘルムの葬儀での賛辞の中であったことはとても意義深い。
共時性の理解のためには必須ではないかと考え、思い切って購入しました。次の課題です。
●因果律とは、ある一つの出来事が、他のことではなく、どのようにして起こるのかという作業仮説といえる。それに対して、共時性とは相互に因果関係がない二つの分離した事象が同時に起こること。それらは無関係であるにもかかわらず同時に起こり、しかも、それらは互いに意味深く関係し合っている。これは、易経の基礎となる原理である。
●易経の中には二つの要素がある。一つは、個人の人生のその時の状況である。他方は、コインを投げてそれを定められた形式によって古代の書物に関連づける行為である。明らかにこれらには因果的関係はなく、しかも互いに意味深い関係を持っている。それらが会う瞬間に、何か普通でなない重要な価値が生じるのである。
表面的には、それは偶然のように見える。しかしユングにとってそれは、明らかに偶然をはるかにしのぐものであり、しかも因果関係でもなかった。明確な原因は捉えどころがないままだが、ユングにとっては中国で何世紀にも渡って維持され続けた原理が、何か重大な秘密を持つに違いないことは明白に思われた。
●易経には基礎となる深くて言葉にするのが難しい知恵が存在し、それゆえ易経の経験は、現代人によって探求されるべき重要なものであることを、ユングは確信していた。
Ⅳ 共時性の基礎
●ユングは共時性とは何かということをうまく伝えることはできなかった。それはつかまえどころのない、抽象的かつ普通とは言えない原理を分かりやすく説明することができなかったためである。
●ユングが取り上げた非因果的解釈の中には、占い、占星術、託宣[神が人にのり移ったり夢に現れたりして意志を告げること]、タロなどが含まれていた。これらは非常に広範囲にわたり、また、現代には受け入れ難く、研究は思うように進まなかった。それらを科学的に正当な理由に基づいて研究することさえ疑いをかけられていた。
しかし、ユングは自分が自分の患者の無意識の非合理的働きを辿る方法を学びたいならば、これらの前科学的な手順を洞察することが必要であると確信していた。ユングが学問上の愚弄に勇敢に立ち向かい、科学的にいかがわしい主題に関わったのは、彼の心理学を満たすために必要なことだったためである。
●ユングは共時性について、自分の行なったことを経験的に観察すること、自分のゼミの中で様々なアプローチすることによって、20年以上もの間、共時性について研究し続けた。そして、ユングが「非因果的関係の原理としての共時性」についての小論を書き始めたのは、75歳になろうとしていた時であった。
●ユングは実験的レベルにおいても概念的レベルにおいても不十分であることは理解していたが、ユングの共時性の概念が論議され、示唆や批判を受けることができるように、世に送り出さなければならないと感じていた。つまり、ユングの「非因果的関係の原理としての共時性」は未完の研究、試案として書かれていることを理解すべきである。
●共時性は日常生活の中で経験される。ユングの著書には、共時性を示す多くの事例や逸話が載っている。
●『仮定的な例として、あなたが、ある特定固有の問題について考え続けていたが、それについて自分が考えているということを誰にも語らなかったとしてみよう。そこへ、だれかがあなたの問題に無関係で全く独立な理由で、あなたに会いに来るとしよう、そして、会話は、訪問の目的に従って進み、それから、あなたの問題について何も議論しないうちに、あなたが探し続けていた鍵を与える言葉が、ふと、予想外に語られたとしよう。
もし、われわれが回想によって、このような状況を振り返り、起こった事の意味を分析的に理解しようと努めるならば、明確な因果的連関を通して各々の出来事を突きとめるであろう因果の鎖をたどることは、いたって簡単である。因果律によってわれわれ、あなたが、その特定の問題にかかわるようになった「理由」をたどることができる。それで、われわれは、その日に訪れた特定の個人を、どのようにして知るようになったのか、その訪問の約束が、どのようにしてなされるようになったのか、そして議論の筋が、どのようにして発展するようになったのかを、分析的にたどることができる。すべてのこれらの事を、やりつくすことは可能であろう。そして、それらが因果律の用語に還元されたとき、それらは、あなたの人生の発展という特定の見地から再構成できるので、その状況の基礎を与えることになろう。
それに対応して、因果分析の類似した筋が訪問者側の見地からもたどることができるであろう。すなわち、彼をあなたに訪れさせた原因となった出来事の連なり、実にあなたの興味を引いた知識を、彼はどのようにして得たのか、どのようにしてまさにその特定の時間に、あなたと約束するようになったのか、どのように「偶然」に、あなたが興味をもっていると彼が予想しなかった問題について語るようになったのかである。これもまた、すべて因果的用語で記述することができるであろう。
あなたと訪問者が出会うとき、それぞれは、因果的に説明できる過去のなかに広がる背景をもっている。そして、それらすべてが、あなた方が出会う特定の点で出会うことになる。あなた方が握手して会話を始めるところへの到着は、発展の縦の線の頂点を示している。その発展は、過去からの絶え間ない流れのなかでの動きであり、また、あなた方それぞれに個別の作用である。なぜなら、あなた方は、それぞれ自身の経験の枠組みと重みによっているからである。
しかし、あなた方が会った瞬間、過去のこの原因すべては、現在の瞬間のコンステレーションの一部、すなわち、時間を水平に横ぎり、そして、本来垂直である因果のカテゴリ―つまり時間的な連続性―が適用できないパターンの一部となる。どういうわけか、このパターンから、そこに、あなたが自分が求めていた回答をふと見つけたという新たな事実が現われる。明らかに、この二組の出来事の間の、どのような因果関係も論証することはできない。ただ、ある種の意味深い関係が、それらの間に存在することだけが、同様に明らかである。
それが符号であったと言うことは全く正しい。しかし、明確にするためには、それは意味深い符号であった、と付け加えなければならない。なぜなら、出来事の交差した連なりは明確な意味をもっていたからである。本来因果律は、符号という事実を含まないものであるから、われわれが最大限言えることは、原因や結果である出来事は、意味深い符号が起きる生の素材を供給するということである。これらの符号の意義、すなわち、それらを単なる無関係な出来事ではなく、現実の符号とする、意味の特別な性質は、因果律によって跡づけられる背景にある要因からは決して導き出せない。それらは、時間的に連続でなく、何らかの方法で時間軸を横ぎるパターンに属している。この理由により、それらは、その本当の本性が何であれ、少なくともまちがいなく非因果的な原理を含んでいる。
ここに示した非常に簡単な例は、それに対応し、関係づけられ派生する局面がすべて考慮されたとき、人の経験の相当大きな領域を含んでいる。長い間、偶然、符号、願望成就、夢を通じての認知、祈りとその答え、信仰による奇跡と治癒、予知、そして同様な現象への疑問は、精神的な魔術の多様な形式によって説明されてきたか、あるいは、さもなければ迷信として片づけられてきた。しかし、量的に見るなら、これらの経験は、いわゆる未開あるいは後進社会だけでなく、われわれ現代西洋文明においても、日々に起こる出来事の非常に大きな率を占めている。
多くの例において宗教の歴史は明らかに、因果律を越えていてそれでもなお現実であるような出来事に基づいている。しかし、われわれは、宗教的な形の現象をはるかに越えたものが含まれていることを認識しなければならない。政治史の上においてさえ、それは表面的には合理的に導かれた決定や少なくとも外交上の認識に従う行為の場であるが、因果的説明ができない、多くの重大な出来事が認められるのである。経済レベルについての妥当性にもかかわらず、歴史についての決定論は、いったん人の運命というさらに大きな問題がもち上ったならば、浅薄で、はなはだ不適当なものとして捨てられなければならないことは、確かに、まさに本質的な理由によるものである。
われわれが、人間の活動の根底を深く研究するならば、宗教の主観性から政治上の動かせぬ事実、あるいは商取り引きの冷静な計算から個人的な親密な関係に至るまで、歴史のすべての側面において、社会の全構造は、社会と個人の作用を記述する厳密な「法則」を見つけるべしという強制を感じているために、これらの不愉快な非合理的事象の存在は、無視されなければならなかった。
知識のどのような標準をもってしても、これらの非合理的事象に理解を伴った説明をすることは、非常に困難であることを認めなければならないが、それは、それらを無視する十分な根拠とはならない。少なくともユングは、非合理性と非因果性が重要であることによってそのような現象が、非常に真剣な注目を受けることが肝要になっていることを感じていた。彼は、どのような種類の現象も無視することは正当でないという事実に加えて、そこには、それらの出来事の下に隠されている何か他の、より一般的な原理が存在すると感じていた。これが、非因果的関係をもつ共時性現象についての彼の研究の背後にある、問いの真意と予感であった。そして、それは、広大な含蓄をもつ共時性の概念へと至った。』
Ⅴ 因果律と目的論を越えて
●共時性は、ユングが研究した第三の説明原理として現れる。三つとは、因果律、目的論、そして共時性である。ユングは無意識を説明するために目的論的見地を発展させたが、さらに共時性へと導かれた。この三つは全て、問題と状況に応じて用いられて、ユングの思考のなかにとどまってきた。目的論的見地は、彼の思考の中枢の位置を保つ。なぜなら、それは、因果律をそのなかに含み、しかも、共時性の問題へ直接に通じているからである。しかし、共時性は、他の原理と釣り合い、それらを補足する独立した原理である。
Ⅵ ライプニッツと道
●共時性は本来、知的概念ではないけれども、過去に共時性を哲学的に説明した人物は膨大な数にのぼる。我々がしたように、ユングをヒュームとカントに関連させることの要点は、ユングの思想が現代西洋哲学の合理主義から現れてきた歴史的過程を示すことであった。しかし、西洋文化における共時性の重要な哲学的先駆者は、合理主義をはるかに越えた源泉に求めるべきである。それらは、ライプニッツによって代表される。
●共時性が関わっている範囲内で、ライプニッツの研究の最も意義深い面は肉体と魂の関係の定式である。学問的には彼の理論は「精神身体的並行論」として分類され、軽視されて、現代思想では哲学的には厄介物視されるほどになってきている。しかし、今や共時性原理の定式と、ユングが心の深い現象を観察することによって為した研究によって、我々はライプニッツの概念の隠れた含蓄のいくらかを理解し始めることができる。
●ライプニッツと老子[中国春秋時代の哲学者。道教の始祖]はユングにとって共時性の概念の先駆者であり、源泉であったとすることは正しい。しかし、二つの間には意義深い違いもまた存在する。そしてその違いは、西洋思想の伝統的発展に関係してる。ライプニッツは無形の影響を自分の心に把握しようと努めるが、道教[儒教、仏教と並ぶ三大宗教の一つ。多神教であり、概念規定は確立しておらず様々な要素を含んでいる]はそれを把握しようとはせず、一部になろうとし、調和する自然の流れの時間の中に入ろうと努めるのである。
Ⅷ 超心理的事象の共時的基礎
●超心理学の現象の研究において、遠くの事象の知覚や未来に起こることの予見は、ユングは自明であるとする。
●ユング自身の人生と心理療法の中で体験した数多くの超心理的な事象は、自分の無意識と密接な関係のもとに生きている。ただ、この無意識との関係は、鋭敏な人格内のより広い認知力の意識的発展によるときと、精神病の場合のように、無意識が無統制に優勢になるときがある。
●ユングは超心理的事象の存在は明らかであり、必要なことは超心理的事象を理解する何らかの方法を見つけることであるという意見を支持している。
●ユングの共時性原理は、超心理学の道程にそって更に先の地点に至っている。ユングは共時性原理のデータをまとめて解釈するための基礎の役を果たすことのできる作業仮説を試みている。
●ユングは心のレベルを四つに分け、人間の認識力の様々なタイプを記述した。表層は自我意識、そのすぐ下が個人的無意識、その下でとても深いところまで達しているのが、トランスパーソナル[自己超越、トランスパーソナル心理学は、神との交感、宇宙との融合感など、人間の知覚を超えたものが人間の心理に与える影響を研究する学問。人間の普遍的な姿を求める]なレベルの集合的無意識。そして底にあるのが、自然そのものの領域に達している類心的レベルである。
●超心理学的研究のこの側面[超心理学現象の発生は、実験室外の環境では非常に大きい広がりをもつ]は、近年、明らかになってきている。その中で、最も注目すべきはガードナー・マーフィで、彼は、「自然発生的経験」が、超心理的現象の研究の中で重要であることを強調している。
「自然発生的経験」について述べることは、超心理的事象は、第一に日常生活の流れの中で起こるという認識を意味している。これは、もちろん、ユングが深層心理学者としての自分の治療研究を基礎として到達した結論である。多くの宗教についての研究によってもまた、ユングは心の元型的[人類に共通する動きのパターンであり情動を伴う]レベルでの象徴と、宗教史上で起こった様々な奇跡的体験との間の関連について、強い印象を受けた。
●自発性は共時性事象に重要な要素であるが、その自発性はあくまで非計画的なものである。そのため、超心理学の研究は非計画的人生経験の中で起こる現象を研究する方法を見つけなければならない。これは、多様な共時的事象を、社会生活の影響下で引き起こされるものとして研究する必要性を意味している。
●共時的事象は、宗教的伝統と神話の基礎となる「奇跡的」出来事に対する重要な糸口をもっている。
左は”EARTHSHIP CONSULTING”さまのサイトです。
「元型」について詳しく解説されています。
『「元型」(archetype)とは、人間に生まれ持ってそなわる集合的無意識で働く「人類に共通する心の動き方のパターン」のことである。分析心理学者C.G.ユング(1875-1961)が提唱した概念。』