第1章 ある医師の負傷と治癒
マイケル・モスコヴィッツは慢性疼痛を脱学習できることを発見する
●神経可塑的な闘争
・自分の痛みは自分で何とかしたいと考えたモスコヴィッツは2007年に、合計15,000ページに及ぶ神経科学の論文を読み漁り、神経可塑的な変化の原理を理解し実践に活かそうと考えた。
・ニューロンの発火を同期させれば脳領域間の神経結合を強化できる。その一方で、「別々に発火するニューロンは既存の結合を切り離す」ゆえに弱めることもできる。
・マイケル・モスコヴィッツ[医学博士、精神科医であったモスコヴィッツは自身に起きた事故により、自らの身体を実験台とした。そして痛みの専門家に転身した]は自分で学んだことを三つの絵にまとめた。一つは急性痛を感じている脳の絵で、そこには16の活動領域が描かれている。二つめは慢性疼痛を感じている脳の絵で、活動領域は急性痛と同じあるが、全体として領域が拡大している。三つめは痛みをまったく感じていない時の脳の絵である。
・慢性疼痛において発火する脳領域を分析すると、これらの領域の多くが、痛みを感じていない時には、思考、感覚、イメージ、記憶、運動、情動、信念などに関する処理を実行していることが分かった。これは言い換えれば、痛みを感じているときは集中や熟考できない理由にもなる。
・モスコヴィッツが考えたことは単純で、「痛みを感じはじめたとき、そして痛みが大きくなろうと、それまで行っていた活動(例えば、思考、記憶など)を意識的に続けることで、それらの活動のために対応する脳領域を維持し、痛みの感覚に脳を乗っ取られることがないようにする。というものであった。
・以下の表はモスコヴィッツが作成した痛みの対象脳領域を表すものである。
画像出展:「脳はいかに治癒をもたらすか」
・『モスコヴィッツは、ある脳領域が急性痛を処理する場合、該当領域のおよそ5パーセントのニューロンのみが、痛みの処理に寄与するにすぎないことを知っていた。それに対し慢性疼痛では、発火や配線が常時なされるためにその割合は増大し、15~25パーセントのニューロンが痛みの処理に関与する。これは、およそ10~20パーセントのニューロンが、慢性疼痛の処理のために徴用されたことを意味する。だからそれらを奪い返さねばならない、と彼は考えたのだ。』
・2007年4月、モスコヴィッツはこの理論を実践に移した。
1)視覚活動によって痛みを圧倒することを考えた。(視覚処理は脳の広大な領域が関わっている)
2)視覚情報と痛みの両方を処理する脳領域は、後帯状皮質(空間内の物体の位置を視覚的に想像する手助けをする)と後部頭頂葉(視覚入力を処理する)である。
3)痛みを感じたときに、自分が描いた脳マップ、慢性疼痛の脳の絵を思い浮かべ、その脳マップが神経可塑性によってどの程度拡大したかに注目した。
4)次に、痛みのない脳の絵を浮かべ、その痛みのない状態に近づくように発火領域が小さくなることを想像した。
・最初の3週間はわずかに痛みが減ったように感じる程度だったが、1ヵ月が経ちやり方に慣れてきた。6週間後には肩甲骨付近の痛みはなくなった。4カ月後には首の痛みがとれ1年後には常時ほぼ痛みを感じることはなくなった。
●MIRROR
・神経可塑性の原理、MIRRORとは、Motivation(動機)、Intention(意図)、Relentlessness(徹底)、Reliability(信頼)、Opportunity(好機)、Restoration(回復)の略である。
・慢性疼痛患者は痛みのために活力をなくし、態度が受動的で依存的である。
・モスコヴィッツのアプローチは患者自身が積極的になり、自己の治療に責任を持つことが求められる。簡単に痛みが消えることはないため、強い動機を維持する必要がある。
・意図とは痛みの除去ではない。脳を変えるための心である。痛みの除去を報酬とすると容易に得ることができず挫折する。特に初期の段階で重要なことは、変えようとする心的努力である。このような心的努力こそが新たな神経結合の形成を促し、痛みのネットワークを弱体化する。
・モスコヴィッツは患者にこれら6つの道具(MIRROR)を与えて、脳をまったく正常な状態に戻すという大胆な目標の動機づけを図る。そして少しでも改善を得られると一時的な「安心」ではなく、希望となって新たな技法に目を向ける。こうして悪循環は好循環に変わる。
●視覚化はいかに痛みを減退させるのか
・視覚化の繰り返しは、思考を用いてニューロンを刺激する直接的な手段となる。脳画像法を用いれば、活性化された脳の視覚ニューロンに血液が流れ込んでいく兆候を観察できる。
●それはプラシーボ効果なのか?
・最新の脳画像研究によれば、疼痛や抑うつを抱える患者にプラシーボ効果が生じた際の脳の変化は、投薬によって改善が得られた場合の変化とほぼ一致する。
・痛みに関してプラシーボ効果は一般的に30%以上とされている。また、プラシーボ効果による治癒は、投薬による治癒より「非現実的」というわけではない。
・ポジトロン断層法(PET)を用いた実験では、プラシーボ治療が主要な脳領域の内因性オピオイドの生産を増大させて痛みを止めること、また、プラシーボ反応が脳の痛覚システムにおけるオピオイド生産領域の配線を強化することを示した。
●ただのプラシーボ効果ではない理由
・プラシーボ効果は急速な反応を示す一方、長く続かないというのが一般的な認識である。ところがモスコヴィッツのMIRRORアプローチを用いた神経可塑性の治療を受けた患者は、プラシーボ反応とは全く正反対のパターンが見られる。最初の数週間は何も反応は見られず、その後徐々に痛みに変化があらわれ、そして脳が再配線されれば介入の必要性が次第に減少する。
・モスコヴィッツの患者における変化のパターンは、自転車乗り、楽器の演奏、言語の習得などで脳が新たな技能を学ぶときに生じるものと一致する。この時間的な経緯は、重要な神経可塑的な変化が起こる際には典型的に見られるもので、変化は数週間(しばしば6~8週間)にわたって生じ、日々の心的実践を必要とする。
・投薬やプラシーボとは異なり、神経の可塑性を利用したテクニックは、ひとたび神経ネットワークが再配線されれば、徐々にその実践頻度を減らしていける。言い換えると、痛みを抑制するという効果は持続する。
・モスコヴィッツが痛みの緩和をした疾患は、神経損傷や炎症に起因する腰部の慢性疼痛、糖尿病性神経障害、ガンに起因する痛み、腹痛、変形性の首の痛み、切断、脳や脊髄の外傷、骨盤底の痛み、炎症性腸疾患、過敏性腸症候群、膀胱痛、関節炎、三叉神経痛、多発性硬化症の痛み、感染後の痛み、神経損傷、神経障害性疼痛、中枢性疼痛、幻肢痛、変形性椎間板疾患、神経根損傷による痛みなどである。
・神経可塑性の課題は対象が痛みの除去に限定されること、成果を感じるまでに2ヵ月ほど、根気よく続ける意志力を要することである。
・モスコヴィッツは2008年、慢性疼痛の治療を専門にする医師、マーラ・ゴールデンに援助を求め、触覚、音、振動をそれぞれ独自の方法で、これらの感覚で脳を満たし、痛みと競合させるアプローチへの理解を深めることができた。
第2章 歩くことでパーキンソン病の症状をつっぱねた男
いかに運動は変性障害をかわし、認知症を遅らせるのに役立つか
・『私の散歩仲間ジョン・ペッパーは、20年ほど前にパーキンソン病による運動障害と診断された。最初の症状は、およそ50年前にすでに現れていた。だが、訓練を受けたよほど鋭い観察者でなければ、それはわからなかったはずだ。ペッパーは、パーキンソン病患者にしては非常にすばやく歩く。パーキンソン病の典型的な症状を抱えているようには見えない。摺り足で歩くこともなければ、動いていようが止まっていようが震えは見られない。特に硬直しているようには見えないし、動きもすぐに開始できるらしい。平衡感覚にもすぐれる。歩くときには腕を大きく振りさえする。パーキンソン病の顕著な特徴である緩慢な動作もまったく見られない。彼は68歳になってから9年間、抗パーキンソン病薬を服用していないが、まったく普通に歩けるのだ。』
・ペッパーは、自らが考案した運動プログラムと特殊な集中力によって克服している。
“意識する事でパーキンソン病の症状をコントロールする:ジョン・ペッパーさん”
2分16秒の動画です。本書の説明通り、パッパーさんの動きからパーキンソン病を患っているようにはとても思えません。
“パーキンソン病:アメリカからの最新ニュース! 薬でも外科的手術でもない新しい治療法!”
6分24秒の動画です。黒いグローブをしている方がパーキンソン病の患者さんです(1分34秒~3分25秒)。
“Scientists Develop Glove That Eliminates Parkinson’s Tremor”
4分52秒”の動画です。上記の元動画のようです。「BEAKTHROUGH PARKINSON'S “VIBRATION”THERAPY」と書かれています。
“How to Use Math and Physics to Treat Parkinson's with a Vibrating Glove with Peter Tass”
9分57秒”の動画です。ピーター・タス先生が説明されています。また、「Tass Lab Team」というサイトがありました。
“SASUKEにも出場してしまう若年性パーキンソン病患者: ジミー・チョイさん”
5分45秒”の動画です。4分58秒からはトレーニングの様子やSASUKEに出場した時の映像が出ています。「凄い!」の一言です。
若年性パーキンソン病というお話で、発病は27歳だそうです。
●アフリカからの手紙
・『2008年9月、私はジョン・ペッパーから次のような内容のEメールを受け取った。
「私は南アフリカで暮らしています。1968年以来パーキンソン病を患っていますが、十分に運動をし、通常は無意識の支配下にある動きを意識的にコントロールする方法を学んできました。私は自分の経験に基づいて一冊の本を書いたことがあります。しかじ医学界は、私の症例を精査することなくこの本の内容を否定してきました。というのも、私はもはやパーキンソン病患者には見えないからです。症状のほとんどはまだ残っていますが、現在の私は抗パーキンソン病薬を服用していません。8キロメートルごとに分けて1週間に合計で24キロメートルを歩いています。ダメージを受けた細胞が、脳内で生産されるグリア細胞由来神経栄養因子の働きによって回復したのではないかと思われます。しかしパーキンソン病の原因が除去されたわけではありません。だから運動しなくなると、もとに戻ってしまいます。
きちんとした運動を定期的に続けるよう説得できれば、パーキンソン病の診断を受けた人々の多くを手助けできるのではないかと、私は思っています。この件について、あなたのご意見をぜひお聞かせください。』
・ペッパーは歩行という素朴なアプローチでパーキンソン病に対処して、脳に神経可塑的な変化を引きおこしたと考えられる。
・グリア細胞由来神経栄養因子(GDNF)は、脳の成長因子の一つで、脳の主要な細胞の一つであるグリア細胞によって生成され、肥料のように脳の成長を促す。脳細胞の15%はニューロンで残り85%はグリア細胞である。
・以前は脳の「詰め物」にすぎないと考えられていたグリア細胞だが、現在は、グリア細胞は常に互いに連絡を取り合い、ニューロンとのやり取りをして、電気信号を修正していることが分かっている。つまり、グリア細胞はニューロンに「神経保護」を提供し、脳の配線と再配線を支援している。
・グリア細胞由来神経栄養因子(GDNF)は1933年に発見され、ドーパミンを生成するニューロンの発達と維持を促進することで、脳の神経可塑的な変化に寄与することが明らかになっている。
画像出展:「一般社団法人日本生物物理学会」
ヒトの脳は、1000億個の神経細胞と、その10倍以上の数のグリア細胞から成ります。グリア細胞には、ミクログリア、オリゴデンドロサイト、アストロサイトなどの種類があります。
・『Eメールをやり取りしているうちに、彼はパーキンソン病が完治したと主張したいのではなく、歩行トレーニングを続けている限り、運動に関するパーキンソン病の主要な症状を逆転できると主張したいことがわかった。きわめて有効な変化が得られたため、パーキンソン病の主要な症状の影響を受けずに済み、十全な日常生活を送れるようになったのだ。「他のパーキンソン患者にも役に立つはずの、この情報をひとりで握ったまま死にたくはありません」と書かれていた。』
・パーキンソン病の影響は二次的に脳を弱体化させる。可塑的な脳は、つねに未知の領域を探索しなければならず、動き回る移動性の生物のもとで進化した。人間は動けなくなると、視覚や聴覚をあまり使わなくなり、処理する情報量も減って脳への刺激も少なくなるため機能が衰え始める。(ものごとを考え抜く作業は有効だが、神経可塑性を備えたシステムが新たな細胞を生成し、神経を発達させるためには身体の動きが必要である)
・パーキンソン病は黒質と呼ばれる脳の部位が、正常な動作に必要な脳の化学物質を生産する能力が次第に失われることによって引き起こされると考えられていた。
・1957年、スウェーデン出身の医師、アルビド・カールソン(後にノーベル生理学・医学章を受章)はドーパミンがニューロン間の信号の交換に用いられる脳内化学物質の一つであることを発見した。その後さらに、人の脳のドーパミンのおよそ80%が大脳基底核と呼ばれる、黒質を含む脳の組織に集中していることを発見した。研究ではドーパミンレベルが70%落ちても影響は見られないが、80%低下すると症状が現れる。
・パーキンソン病はドーパミンの喪失が直接の原因と考えられるが、それはこの病気の重要な側面の一つと考えた方が正しい。ドーパミンが失われる理由は何か、脳領域全体の機能に影響するのは何故か、その答えは出ていない。