第八章 所謂永田町時代
第三節 寒松垂柳
『あまねく歐米の女子敎育狀況を、活眼をもって視察してきた先生は、わが國上流子女の敎育に、いかに「體育」が必要であるかを痛感して、歸來直ちに全學校職員に計り、體操科の大演習ともいふべき「運動會」の開催に努力した。本來華族の子女に、わけても「體育」の缺くべからざる所以は、かねてより知られて居たので、華族女學校でも明治二十年九月以降、努めて普通體操を課してきたが、先生はそれ以上更にこの運動會を、春秋二回にわたって興行し、もって全生徒の體育熱に拍車を加へられたのであった。』
画像出展:「順心女子学園六十年のあゆみ」
第十一章 志那留學生の教育
第四節 炯眼
『この人物[邊見勇彦:「若い頃まことに、手に負へない亂暴者だった私が、六十餘歳の今日、なほアジア民族の大同團結の為に心を致し、微力を盡してゐることは、全く曾って下田歌子先生に御面接の機會を得、先生に依って、自分の進むべき道を敎示されたからこそである。その當時を思ひ、先生が夙くより、支那問題に深き關心を持たれ、支那の過去、現在及び未來に對する、周到なる見解と抱負とに想到すれば、私などはただ驚嘆これ久しうするほかはない」]のこの追懐談は、次第にこの邊から面白さを増してゆく。「女それ何するものぞ」と、若い豪傑が心に澁りながらも、實姉と義姉とにすすめられてやむを得ず、麹町永田町の華族女學校官舎に下田先生を訪ねると、先生は例の「被布のやうな物」を召して居られて、お會ひになるといきなり漢文口調で「成る程、お見受けするところ、邊見郎太大人のわすれがたみだけあって、容貌、骨格ともに、偉丈夫の相をして居られる。私はこれでも敎育家であるから、何もかも知ってゐる」と、まづ靑年の度膽を抜いて終はれた。
「現在の日本の敎育といふものは、人間を、みな一つの鑄型に嵌めようとする。だからあなたのやうな豪傑が、日本の學校では落第したり、暴れたりして、所を得ずに居る。これは取りも直さず、日本の敎育制度の誤りである。一つ日本を諦めて、支那へ行く氣はないか。今は誰も支那を問題にしてゐないが、自分の考へを正直にいへば、日本の興亡といふものは、結局は對支問題を如何に處理してゆくかに在ると思ふ。日本と支那の有樣をこの儘にして置くと、恐るべき結果に陷る。まづ具體的な第一着手としては、彼我新提携の前提として、お互いの人情、風俗、制度、文物をはっきりと認識しなければならぬ。その第一歩としては、まづ彼我の言葉が通じなければならぬ。支那の留學生はだいぶ來てゐるが、支那にゆく日本人の留学生は實に少い。日本の為に、率先して支那に渡って見る氣はないか」と、先生は重ねて喝破されるのであった。
下田先生の一面たる、警抜なる感化力、指導力に眼のあたり接して、根本から更生の途を見出したこの野心勃々たる一靑年は、間もなく上海に渡って、その最も繁華な四萬路に、堂々たる三階建の家を借りて、まづ作新社と稱する出版商社を與し、第一に「支那の靑年層に新知識を普及」せしむる目的をもって、雜誌「大陸」を月刊し、更に日本の政治、經濟書を支那文に翻譯して、盛んにこれを頒布した。』
第十二章 途上十年
第二節 思ひ出の官舎
『事實に於いて、謂ふところの「永田町時代」後半の下田先生は、華族女學校の學監兼敎授として、その聲望は実に一世を壓してゐた。或る意味より考へて、その時代の「反射鏡」ともいひ得る當時の新聞、雜誌の類をいちいち調べてみれば、明治三十七、八年、すなはち日露戰争前後に於ける下田先生の言動もしくは進退が、いかにしばしば、それ等の紙上を賑はしてゐたかに一驚する。試みに、どのやうな按排に先生への風當が強かったか、ここに、眼についたままの實例二三を拾って見よう。』
『その三、これは明治四十一年三月十二日附きの「東京日日」新聞に、「日本一の月給取は下田女史、それでゐて借金澤山」と題し、どこで調べたものか學校、出張敎授、著述の印税、執筆料などを仔細に調べ、先生の年收を七千五百圓と見、第二位にその半分にも足りぬ、年收三千圓前後の音樂家、幸田延子女史を置いた興味本位の記事が出た。先生が、その永田町時代、少なからぬ收入があったにかかはらず、實踐學園の經営、雜誌「日本婦人」の發刊、各種公共團體への喜捨金などで、相當の借財に悩んだことは事實であるが、かく如く喬木なればこそ、正當に働いて報酬を得ても、また、涙を呑んで他から資金の融通を仰いだことに對しても、それが世間の注目に惹いて、忽ち新聞の紙面を飾るに役立つのだから、まことに是非もなき次第であった。
下田先生がつねづねいって居られた言葉に、「自分は生まれつき、政治が嫌ひな方ではない。だから今でも、間違って敎育方面に走って來たやうに、自分を考へることも度々ある。しかし自分の性格は、おそらく政治家には向かないであらう。政治の道に志すのに、自分は第一の資格を缺いてゐる。それは自分が情に脆いといふことだ。困るから助けてくれといって泣きつかれると、自分は自分の立場も體面も忘れて同情してしまふ。かう人情脆くては、所詮政治家は駄目である」といふのがある。』
第四節 描かれし素像
[古い女の完成を (下田歌子女史訪問記) 磯村春子]
『下田先生の人格と、その説く所に就いては、己に世に定評があるから、今更こと新しく「今の女」として紹介するには當るまいが、女史の卓越した見識と、確固たる意見より發せらるる所説は、今の女、後の女の範としてとるべきものが多いと信じ、敢へてここに紹介する事にした。その日、先生は白襟に黑羽二重、三つ紋の被布を着て、こころよく記者を迎へ、相變らず何の隔てなく所信の程を語られる。
「私は日課と致しまして、朝早く起きてすぐ冷水摩擦をやり、今日迄病氣のほかは一日もこれを缺かしません。それから天氣がよい朝などは、運動の為に少し散歩をするか、畑を掘り、土を反して草花や野菜の培養を致します。一週に二度は、宮樣の御殿へ伺侯しますので、その日は特に早く起きて、まづ身を浄めます。
伺侯の時間は午前八時から、晝頃までになってゐますので、御殿を下りまして宅に歸り、それから晝の食事を濟して、下澁谷の實踐女學校へ參、歸宅するのは大抵日暮れ頃ですし、歸宅しても學校の職員や、他の訪問客のお約束がありますから、自分だけの時間といふものは殆ど御座いません。
特に私の嗜好と申して、別段これぞと云ふものもありませんが、まづ幼少の頃から、これだけは長い、長い間の習慣となってゐる讀書でせう。近頃は殊に時世の變遷を知る為に、つとめて澤山の新刊書を讀むことにしてゐます。本は、幾ら澤山、また短い時間に早く讀んでも、いまだ曾って頭が疲れたなどといふことはありません。習慣の力といふものは、自分ながら大きなものだと存じます。
私の敎育方針は、やはり現在の國情もよく參酌しては觀ますけれど、古い明治の眞精神を繼續して、しっかりと大地を踏みしめた、着實質實な方針で進んでゆきたいと思ひます。私は今日の女性めいめいが、何でもいいから自分で働くこと、働かねばならぬと信ずること、さういふ頭の生徒を作ってゆくことを、まづ第一の急務だと思ひます。
さうでなくて、徒らに西洋の派手な風俗や思想にかぶれ、輕佻浮華に流れて、自ら働くことを嫌ひ、懐手をしながら樂な生活をしようと心がける現代の女性の将來は、いったいどうなってゆくでせう。借りものの西洋思想ほど、この世に危險なものはないではありませんか。西洋人は、いささかあちらを歩いて存じて居りますが、科學者でも醫者でも、或ひは法律家でもまた統計學といふ方面でも、ちゃんと男子に劣らぬ位にまで進歩、發達してゐる婦人が多いのです。
けれども日本はどうでせう。當然女子の事業たるべき方面にまで、なほ男子の手を借りなくては事が運ばないのに、ただ新しく、ただ奇を狙って進んで行って、いったいどう締めくくりがつくでせうか。何も好んで男子の職業の範圍にまで突貫して行かなくても、女子が女子らしい本當の仕事、たとえば裁縫、刺繍、料理などの方面で、まづ斷然男子に厄介にならなくても濟むやうに、女子の實力を養ってから上のことにしてはどうでせうか。
私は、だから目下の急務として、所謂「新しい女」を完全なものに作りあげるのが、本當の敎育だと信じます。過渡時代の現象として、一面やむ得ないことかも知れませんが、私は新しい女とか、新眞婦人とか自ら名乘る人々が、もう少し堅實な思想を持って、自重して、もっと足許をよく御覧になって、日本の本當の婦人らしい言動を執られんことを、此際こころから希望してやみません。』
[第一流の價値充分 (現代名士の演説ぶり) 小野田翠雨]
『下田女史の演説は確かに巧い。第一流の價値は充分ある。辯舌が如何にも流暢で、抑揚があり、波瀾もあり、興趣もあって、態度、身振も堂に入ってゐる。ただし、所説があまり佳境に進むと、餘に熱心が過ぐる結果か、身振が餘に激しくなって、心ある冷静な第三者には、いささか空々しさを感じさせるやうな懸念がないでもない。
女史の演壇に立った風采は、それはそれは見事なものである。頭髪はいはゆる下田式の束髪で、一體にそれ上の方へあげて結び、廂も髷も大きく出してゐるのだから、頗る聴衆の眼を惹きやすい。しかも服装はと云へば、これも大抵の場合下田式の被布に、黑または紫紺鹽瀨の袴をつけ、澁く、質素に見えながら、その實なかなか地味でない。どことなく濃艶で、ぱっと派手やかな所があり、遠目でみると〇〇〇〇、たしかに十二三歳は若く見える。
女史の演説にも、一つの大きな癖がある。それはしばしば右の手で、例の下田式の束髪を氣にして、無心な調子で撫でつけることだが、これがまた何とも云へぬ愛嬌とも受け取れる。それから言葉としての特色は、「そしてですねぇ」と、この「ねえ」を長く引っぱる癖である。更に演説中、よく出る言葉に、「私の如き學問のない」とか「私如きが敎育家の末席に列しまして」とか、自分を極端に卑下してかかる點で、これは確に聴衆に大きな感動と好意を抱かしめる、何でもない事のやうで、なかなか賢明な方法である。
實踐女學校内に、女子特設の「源氏物語」の講座があるといふが、これは内容も徹底し、造詣もふかく、態度、辯舌も爽かで、大した評判の名講義だと聞くが、女史の國文學は當代でも一流だから、定めし大評判通りの名講演であるに相違ない。女史自身が多分に涙もろい女性らしいから、女學校の卒業式の告別演説などでは、よく聲涙ともにくだる名演説をして、滿堂ただ噓〇流〇のるつぼと化し去るのが常であるといふ。女史は演壇で、女史自身がまづ興奮し、感激するのだから、聴衆が自然と興奮し、感激するのも元より無理はない。』
第十四章 愛國婦人會々長時代
第七節 輝く成果
『續いては先生、年來の宿題の一つたる愛國夜間女學校の開校がある。これは越えて大正十三年、甲子の歳三月二十三日をもって、芽出度く開校の運びとなり、勿論先生はその校長に就任されたのであるが、それは夜間と雖も立派に、修行年限三ヶ年、高等女學校の程度に準ずる本科と、別に裁縫、家事に重きを置く一ヶ年修了の簡易科を附設した。
曾て帝國婦人協會創設の〇り以來、資なくしてなほ向學の精神に燃ゆる、健氣なる後進女性のために、夜間の女學校を開設することは、實に先生の永き宿望の一つであった。それが、いま端なくも内外の要望に從って、頗る自然に、開設實施の期を見るに至ったのは、實にその前年の九月、突如として襲ひかかった前古未曾有の大震災の故である。』
第十六章 哀哭記
第五節 告別祭
『昭和十一年十月十三日、つひに一世の偉人を送って、その遺骸に永遠の別れを告ぐべき儀式の日とはなった。夜來の雨、一同の悲しみを知りて竟に降りやまず、午前九時、昨夜より徹宵準備せし講堂に、まづ靈柩を貴賓室より移しまつる。棺側奉仕の敎職員の手もて、やがて靈柩は講堂正面、壇上の靈與に奉安せられ、その前には、黑リボンにて飾れる在りし日の溫容、慈顔、微笑さへ含ませらるる先生の大寫眞を掲げ、恰もそれが護るが如く、勳四等實冠章と、勳三等瑞實章とが、不滅の功績を語りつつ、燦として輝きを放ってゐた。
仰げば壇上左右には、畏きあたりより賜はりし祭資料の御目綠をはじめ奉り、皇太后宮、三笠宮、閑院宮、東伏見宮、伏見宮、山階宮、賀陽宮、久邇宮、梨本宮、東久邇宮、北白川宮、竹田宮、昌德宮、李鍵公妃並びに宮家より御降嫁の立花美年子、佐野禮子、東園佐和子各令夫人より供進せられたる御玉串料、御榊、御菓子、御鏡餅等の供物、まことに所狭きまでに山積せられ、更に壇下左右の兩側には、朝野各方面より供へられし眞榊、花輪、生花などの類數知れず、しかもそれはいづれもその極く一小部分であって、大方は搬入の餘地もなく、やむなく一、二階の廊下、記念館、新築中の校舎等にまで、充ち溢れてゐた。
ここにもまた先生生前の功績と德行との偉大さが偲ばれ、新たなる哀惜の涙を誘ふものがあったが、何分にも會場の收容力には限りがあり、參列生徒にも、また涙を呑んでその數に制限を加へねばならなかった。すなわち三校生徒代表、櫻同窓會員代表を約百五十名、幼稚園代表二名、それに、故先生が曾て校長たりし關係よりして、順心高等女學校より九十名、愛國夜間女學校、明德高等女學校、淡海高等女學校よりの代表若干を加へしのみ、他は各自敎室に於いて遙拝、黙禱せしむることとしたのであったが、すでにこれのみにて、さしも實踐學園の誇る大講堂も、今は全く立錐の餘地すら見ざる有樣であった。
かくて午前十一同着席、齋主、祭官四名、伶人五名まづ着床、いとも嚴かに告別の祭典は開始さる。齋主は前掲の如く出雲大社副管長、千家尊弘氏である。一同起立修祓を受け、伶人の奏する〇〇たる樂の音のうちに、齋主以下祭官列拝、奉幣ののち海山種々の○物献じ、つづいて一同起立のうちに、左の如き齋主の告別祭詞奏上さる。一句また一句、朗々と誦される祭詞の中からも、故先生八十三歳の輝ける生涯の德功が、いよいよ高く偲ばれて、今更ながら痛惜の情をそそるもの大であった。』
画像出展:「下田歌子先生傳」
画像出展:「下田歌子先生傳」