下田歌子6

下田歌子先生の『婦人常識の養成』は代表的な著書の一冊と言われています。

拝読させて頂く前は、「あまり関係ないかなぁ」と思っていたのですが、決して“婦人”だけではなく、素晴らしく勉強できるものでした。

ブログは、”第三章 婦人と勇氣”と”第六章 婦人と敎育(三、女子の高等敎育)”の2つだけになります。

また、今回も『下田歌子先生傳』と同じく、時代感を出したいと思い、可能な限り本書に出てくる漢字や言い回しを使っていますが、今回の『婦人常識の養成』は読み仮名がふられていたので助かりました。ただ、漢字が見つからなかった場合は〇となっています。ご容赦ください。

著者:下田歌子

発行:1910年7月

出版:實業の日本社

緒言

『この書は、題名の示す通り、年少婦人の常識を養成する一端にもと思って書き集めたもので御座いまして、決して高尚深遠な學理を説くのが目的ではありませぬ。

書中に説く處は極めて平凡で、通俗で、判り切った事を長々と書いたと思召す方も或は有るだらうと思ひます。それに本書は年少の婦人に讀ますると云ふ考へで、説明の方法も出來るだけ平易に、又出來るだけ丁寧にと考へました處から、或は同じ事をくどくどと云って居ると云ふ嘲りもあらうかとも思はれます。併しそれは、著者の目的か那邊にあるかを御考へ下されたならばおわかりになると思ふので御座います。

本書の中にも幾度も幾度もと申して置きました通り。最も完全な國民といふのは、最も完全な常識と道德とを持った國民を云ふのだらうと思ひます。我日本國民は、種々の事情からして、非常に常識に缺けて居ると云はれて居ります。特に婦人においては、殆と常識の存在を疑はれて居ると云ふ始末で、誠に悲むべく又一日も忽かせにすべからざる大事件であると云はなければなりませぬ。

此の書を世の中に呈出する事に依て、著者は婦人の常識を立派に養成出來やうなどなどの自負心は決して持って居りませぬ。誰目下の缺點を補ふために、汗牛充棟も○ならぬ有樣で出版せらるる良書の末班に加へられて、○かにても斯道に裨盆する處ありと認められたならば、著者の心は足るので御座います。』

明治四十年六月 赤阪靑山の居にて 著者識

目次

第一章 現代婦人の覺悟

一、上古婦人の地位は如何であった乎

二、中古婦人の地位は如何であった乎

三、近古婦人の地位は如何であった乎

四、現代婦人の地位は如何であった乎

五、時代の要求する婦人

六、現代婦人の覺悟

第二章 婦人と慈惠

一、婦人の特長は何ぞ

二、父の嚴命より母の慈訓

三、戰塲に於ける婦人の慈惠

四、盛り塲に於ける止女

五、男子の勇氣と女子の慈心

六、社會の事業と婦人の慈惠

第三章 婦人と勇氣

一、勇氣は品性の骨格

二、進んで取る勇、退いて守るも勇

三、眞の勇氣と偽の勇氣

第四章 婦人と信念

一、安心なる生涯を求めよ

二、正しい判斷から得た所の確信

三、婦人は信念の力が強い

四、夢から夢に入りて醒めざる婦人

第五章 婦人と宗敎

一、老子の口吻を眞似るではないが

二、日本の神樣と西洋の神樣と

三、宗敎は決して無用の者では無い

四、宗敎の婦人に及ぼした影響

第六章 婦人と敎育

一、女子敎育の目的は那邊にあるか

二、完全なる國民としての婦人 ―賢母良妻主義―人格修養主義

三、女子の高等敎育

第七章 婦人と常識

一、昔は常識とは言はなかったが

二、女學校出身者は何故に常識に乏しいか

三、如何にしたら常識が得られようか

第八章 婦人と學問

一、女の生學問といふこと

二、男と女とは學問の價値が違ふ

三、眞の學者としての婦人

四、婦人と文學

第九章 婦人と職業

一、已むを得ずして執る職業

二、日本にはこの兩方面を調和した職業がある

三、婦人は或意味に於いて一大職業を育つ

第十章 婦人と手藝

一、手藝は婦人に天與のものである

二、婦人の嗜なみとしての手藝專門家としての手藝

三、編物押繪に一機軸を出した兩女敎師

第十一章 婦人と禮法

一、禮は文明の尺度

二、自由な國の不自由と不自由な國の自由

三、虡禮虡飾と禮法の精神

第十二章 婦人と音樂

一、人類は音樂的動物である

二、婦人と音樂との關係

三、日本樂と西洋樂と

第十三章 婦人と遊藝

一、誤解されたる遊藝

二、遊藝が品性に及ぼす影響

三、遊藝の選擇

第十四章 婦人と裝飾

一、婦人は社會の花

二、美に捕はれたる婦人

三、外貌の美と精神の美

第十四章 婦人と裝飾

一、婦人は社會の花

二、美に捕はれたる婦人

三、外貌の美と精神の美

第十五章 婦人と交際

一、人は交際的動物である

二、婦人が社交熱の消長及び得失

三、所謂靑年男女の交際

第十六章 趣味と實益

一、雅やびかなふるまひ

二、趣味と實益

第十七章 婦人と衛生思想

一、婦人は家内の衛生係である

二、病に罹らせないのが第一の目的罹ってからの看

三、衛生上より見たる衣食住

第十八章 婦人と經濟思想

一、世帯持のよい婦人

二、時間の經濟と勞力の經濟

三、經濟の點から見た衣食住

第十九章 理想と現實

一、宇宙問題と人生問題

二、現實の地に足を立てて理想の天に頭をつけよ

三、藝術の宮

第二十章 希望及び快樂

一、過去の悲しみに耽る人

二、希望と快樂とは人格によって上下するもの

三、快樂そのものを希望する人

第二十一章 婦人の結婚問題

一、結婚目的のいろいろ

二、結婚の制度

三、良人の選擇

第二十二章 婦人の長所と短所

一、體格の上から見た長所短所

二、精神上から見た長所短所

三、婦人の長所短所とから見たる事業

第二十三章 主婦としての婦人

一、これこそ眞の分業である

二、家庭の圓滿は主婦の德

三、妻としての修養

四、婦人と服從の德

第二十四章 母としての婦人

一、母親たる責任は何時から負ふ乎

二、我が乳で我が兒を育てぬ母親

三、白金も黄金も玉も何かせん

四、母の感化と子の感化

五、母親の資格は如何すれば有てる乎

第二十五章 娘としての婦人

一、女兒は何故男兒よりも一層親に孝行せねばならぬ乎

二、娘時代は修養の時代である

三、理論よりも寧ろ實地が大切である

四、女學校卒業生の下婢となった實驗談

第二十六章 國家と婦人

一、國家と國民、皇室と臣民

二、婦人も國法を知らねばならぬ

三、國家の事變と婦人

第二十七章 婦人の十德

一、正實

二、仁慈

三、恭謙

四、貞淑

五、快濶

六、勤儉

七、堅忍

八、沈着

九、高潔

十、優雅

第三章 婦人と勇氣

一、勇氣は品性の骨格

『東洋では、昔から、智仁勇の三德と稱して居りました。その勇と云ふ德は、譬へば人間の體で申して見れば、骨格の樣なもので御座いませう。人間には御承知の通り、體格上から許りて申しましても、種々の要素が必要で御座います。まづ、皮膚だの筋肉だのが無くてならぬので、其れから、神經だの、血管だの、肺臟、心臟などその他内部の諸々の機關を安全に保ちて行くもの、又は、筋肉や、皮膚や、毛髪や、血管や、神經などをして、充分に活動せしむる為には、骨格と云ふものは、まづ、確乎として居らねばならぬ事は、今更彼是と説明するまでもない事で御座いまして、骨格は、實に人間の有って居る諸機關を、最も良い樣に組み立て、又最も良く活動できる樣に統一し、而も又最も安全である樣に保護して居るものであると云ふ事には、異論の無いことであらうと存じます。

今度は、人間の精神の方の活動について申して見ませう。人間の精神的の活動を仔細に歡察して見ると、先づ三つの方面に分ける事が出來ます。即ち

 一、智の方面による働き

 一、情の方面による働き

 一、意の方面による働き

で御座います。

是等の三方面について詳しく説明するのは、心理學の方の部分で御座いまするから、此處に於いては、なるべく避けようと存じます。唯心理學者の説明によりますれば、是等の三方面の働きが如何なる人の心にもあると云ふので御座いますから、若し或る人の精神の活動を見て、此中の一つが欠けて居る樣では其人は充分完全な人間と云ふ事は出來ないので御座います。敎育と云ふものは、この三方面の精神の活動を、充分完全に發達させる樣にするのだらうと存じます。

さてこの心の活動を極く手短かに説明して見ると、智の作用とは、人間が物を知る事で御座います。人間は他の動物と違ひまして、物事の善惡を判斷する力があります。物の美醜を見分ける力があります。物の適不適を分ける力があります、まだ其の上に、犬とは何んなものか、馬とは何んなものかと云ふ樣に、其物の性質を考へ出す力があります。此樣な、判斷とか、比較とか、概括とか、想像とか、記憶とか云ふ樣な心の活動は、之れ實に心の智的作用によるので御座います。學者は之を理性の作用と云って居ります。

第二の情の作用と云ふ事に就いて、尚自分の精神を自分で考へて見る必要があります。外でもありませぬ。理性の活動を以て、人は善惡、美醜を分ける、甘いか甘くないか。滋養であるかないか、善い行であるか。惡い事であるかなどなど一々判斷がつくのは、それは理性の作用である事は、今申した通りでありますが、心の活動は、それ切りで止まるかと申しますと、決して左樣では御座いませぬ。之の行為の判斷がつくと共に、必ず其所に一種の感じを起しませう。善い行為をした時や、甘いものを食べた時の感じと、惡い行為をした時や、詰らぬ損をした時の感じとは、同じ心の活動でありながら、全く別な樣でありませう。初めの感じを喜びと名ければ、後の感じを悲しみと名づけます。其他に、怒り、樂み、苦み、など、感じの種類が澤山あります。これらの感じを學問上感情と云ふので御座います。

それから意の方面とは、決斷であります。この事を為よう、あの事はすまいと決斷するのは、之を意志の力と云ふので御座います。斯う云ふ事をしたいと云ふ氣が起る。それは惡い事だ。してはならぬと理性で知って、それを斷然せぬと決斷するのは、即ち強い所の意志の力で御座います。人間のどんな行為でも、其初めは必ず心の三方面が活いて、それが行為に表れる樣になるのでありますが、毎日々々行為に表はれるとか。それでなくとも、能く馴れた後には、この樣に規則正しく心に相談して起こるものではなくなるので、之を習慣と云ふので御座います。

斯の樣な心の活動が頓て、其人の行為となって、表面に現れるものでありますが、其行為の上から見ると、其の三方面何れも大切である中にも、特に意志と云ふ方面が最も大切であらうと存じます。意志が確固として居らないと云ふと、智識や、感情が如何に勝れて居ても無益であります。固より、單に意志許りて、智情は何うでもよいとは申しませぬ。智情も固より大切であるが、意志は、殊更に大切であると云ふので御座います。智情の立派で、意志の確固とした人は今日所謂、完全な人格の人と云ふのであります。世間で精神の確固した人と云ふのも、この意味で云ふのでありませう。自分は、この意味に於いて、智情に護られた意志の最も確かに表に現れるものを、勇氣と云ふので御座います。單に自分の見る所許りでは御座いませぬ。前にも一寸申した樣に、古人が智仁勇と、並べ稱せられた中の勇と云ふ德は、此意味に於ける意志と解釋する事が適當であらうと存じます。

して見れば、勇氣は丁度精神の上の骨格で御座いませう。智で知っても、情で感じても、さて之を斷行すると云ふ決心がなければ、何にもなりませぬ。意志は強ければ強い程よい事は、丁度骨は太く逞しければ逞しい程立派な人間であると同樣であるではありますまいか。

前章に女子の滋心と男子の勇氣とを比較して述べました程であるに、爰にまた婦人に於ける勇氣を喋々するのは、或ひは、矛盾の嫌ひがあるかも知れませぬが、それは勇氣をば俗世間で云ふ所の勇氣、即ち、腕力がかった強さを意味するとか、武藝が達者であるとか云ふ方面のことの聯想から起る誤りで御座いまして、今自分が申しました通り、最も強固なる意志であるとすれば、婦人と雖も必要な事は申すまでもありませぬ。唯男子には殊にこの勇氣が生命であると申した譯でありますそれで、若し斯の樣な勇氣が婦人に必要はないと云ふのならば、それは丁度婦人は軟らかなるものであるから、骨は要らぬと云ふのと同樣と云はなければなりませぬ。』