下田歌子7

著者:下田歌子

発行:1910年7月

出版:實業の日本社

目次は”下田歌子6”を参照ください。

二、進んで取る勇、退いて守るも勇

勇氣は精神の骨であります。骨は固く、骨は容易に折れてはならぬ。骨のある人は確固して居ります。勇氣のある人も亦、充分確固した所があるので御座います。

勇氣は、決して男子の專有物ではありませぬ。成程千軍萬馬の中に飛び込んで、矢玉を冒して血戰する婦人は一寸珍らしい、けれどもそれ許りが勇氣ではありませぬ。昔風の消極的な考へ方にすれば、婦人は勇氣のないもの、又勇氣の要らぬものと考へられますかも知れませぬが、それは考へ方が違って居るので御座います。婦人であっても亦勇氣なるものは、必要であるので御座います。

では勇氣、即ち確固した意志とは如何なものであらうか。更に進んで研究して見ませう。自分の見る所では、之に二方面ありませうと存じます。

 一、道に當っては進んで取る。

 一、不道に對しては退いて守る。

之の二つを一つに纏めると、やはり道に從って、動く所の強固なる意志と云ふ事になるのであります。其行ひが道にさへ叶って居るならば、進んで取るも勇氣があって、退いて守るも亦勇氣であります。要は道に對する強き決心であります。

この強き決心が、行為に現れた所を御覧なさい、如何許り美しく、亦如何許り華々しく、又如何許り勇ましいでありませうか。

我自ら道を守って病しい所がなくば、百萬の敵に對しても、莞爾と笑って居る事が出來ます。如何に勇ましいではありませぬか。千百の誘惑が、右から左から、前から後から、續々として押し寄せて來ても、我れに堅く信ずる所さへあれば、此等の誘惑を冷然として打ちながめて居る事が出來ます。成し遂ぐべき事、又成し遂げ得る事と信じたならば、百千の障害を推し除けて、百度二百度の失敗にも恐れず、何處までも之を成し遂ぐるのも大なる勇氣があるからであります。為してはならぬもの、不義不正の事と見定めたならば、如何なる忠告を與へられ、如何なる迫害に遇ふても、平然として斷じて不義不正に手を染めぬと云ふのも、大なる勇氣があるからでありませう。

但し男子には、堅きを碎き鋭きを破り、進んで取るの勇氣を要する塲合が多いので御座います。が、兎にも角にも、何の方面に於いても、人の行為の根柢には、常に偉大なる勇氣がなければなりませぬ。例へば蒸汽力が非常に大なる活用をして、世の中に非常なる利益を與へるのは、其の根本に熱と云ふ原動力がある為である。そのやうに人にも勇氣といふ原動力が無ければ、とても思ひ切った善事は出來ないのであります。

勇氣のある處にこそ、大發明の人を出し、萬難を排し、千辛を甞めた處に、大成功者は作り出されます。道に從って悠々然として身を省みぬ、殉國殉義の人ともなります。生命を賭しても、淸き心を守る所の貞操、淑徳の人ともなります。あらゆる善と美と、之を為すのも勇氣に依り、あらゆる惡と醜と之を避けるのも勇氣に依るのであります。

されば勇氣と云ふものは、大事件があって初めて起るものではありませぬ。大事件のある時には、勿論勇氣が必要でありますが、敢えて大事件でなくとも、日々の行為の上に於いても勇氣の必要は極めて大なるもので御座います。例之ば學生が勉強をして、讀本なり、算術なり稽古をして居る。すると眠くなる、眠くなった時に、眠いと云って寢るのは、正しい所の意志の決定に從った譯ではありますまい。正しい意志は、眠ってはいけない、眠る樣では、決して立派にはなれない、其の眠い所を忍耐して勉強しろと云ふのでありませう。それが出來ないで眠ってしまふ人は、それはたしかに自制克己と云ふ念に乏しいので、即ち勇氣に乏しいからだと申さなければなりませぬ。

當今男女學生堕落の聲は、實に忌はしい事でございますが、非常に喧ましくあります。自分は、親愛なる學生の方々が、世間で囂々云って居る程、甚だしく堕落したらうとは存じませぬが、其一部には、遺憾ながら、少しもその形跡が無いと斷言することができませぬ。さて其幾百人のうちの一人でも、不幸にして堕落したと致しましても、そのはじめ遠い國々から、親に分れ、兄弟親戚に別れして、遥々と東京に出て參りました時の心は、何うで御座いましたらう。必ずや其時の其の人の胸の中は、前途の希望と、大決心の勇氣とが充滿して居ったので御座いませう。年は若い盛りであるし、空想は頭の中に縱横に駈け巡る時代でありますから、其人の前途は實に洋々海の如きものがあったに違ひないのでございます。それが何うでせう。東京へ出ると直ちに堕落して、學問も目的も、何も彼も滅茶々々にして仕舞ふと云ふに至っては談るに詞が無い。初め大なる勇氣を持って出て來たが、今では其勇氣は何處へ行ったのか分からなくなったではありませぬか。

これに依って之をいへば、其初め國を出る時の勇氣は、決して眞の勇氣ではありませぬ。眞の勇氣を持って居ったならば、如何樣な誘惑に遭った所で、決して其の誘惑に陷るものではありませぬ。それは都の中は種々なる誘惑の機關が備はって居りまして、手を變へ品を變へて誘惑するので御座いますから、まだほんたうに思想の堅まって居らない若い人々に取っては、知らず知らずの間に其誘惑に陷るのも亦已むを得ない樣にも思はれますが、かと云って、東京へ出て來た男女の學生が、澤山どし々々堕落してゆくかと云ふに決してさうでない。堕落生が假に如何に多いとて、堕落しないで成功するものの方が遥かに澤山あるので御座いますから、矢張堕落するものは、眞に勇氣のないものと申さなければなりますまい。誘惑の惡魔も眞の勇者には寄り附く事が出來ぬのであります。

自分は妙齡の女子達に特に申したいのは、如何なる誘惑が來ても、不正不義と見たならば、死を誓ってこれに抵抗するだけの、大なる勇氣を持って貰ひたいと思ふので御座います。この勇氣を持たない人は、幸いにして、誘惑の魔に觸れる事がなければ兎も角、一度之に觸れたならば忽ちに堕落するので御座います。それでは同うして立派な婦人と云ふ事が出來ませう。昔から今まで、貞女節婦として稱へられて居る人々の行為は、實に斯の樣な塲合に、自若として道を違へず、死生を賭して道の為に爭う所の大なる勇氣に富める人で御座いました。』

三、眞の勇氣と偽の勇氣

『勇氣は誰人にも必要で、又何時如何なる塲合にも必要である事は前申した通りで、又勇氣の二方面、即ち進んで取ると云ふ方面と、退いて守ると云ふ方面とも前述の通りで御座います。進んで取る方面は、事業の方から見れば進取即ち積極的であります。自分の志した事は萬難を排して、之を成し遂げるので御座います。世の中に立ちて、事業をなさんとする人で、進取の勇氣がなくては、到底充分なる成功をなし得るものでは御座いませぬ。退いて守ると云ふのは忍耐であります。守ると云ふと少し云ひ方が惡いので御座いますが、畢竟事業をなし、正義を行ふ上に、思はぬ所の妨害が出來たり、困難が起こったりするのは云ふまでもない事であります。それを克く忍び克く耐へてこそ、初めて成功するので御座います。

この進取の氣象と忍耐の力とは、人生の如何なる方面に行っても極めて必要であります。人間の一生、一時間の中と雖も、これが無くてはならぬ必要のものであります。敢へて例を引くまでもありますまい。家庭の中に在って一家族が暮す時でも、商賣をして他人と取引する中でも、机に對って書を讀む間でも、如何なる時でも、如何なる塲合でも必要でなくてはならぬものであらうと存じます。これ程大切なる勇氣も、克く克く注意しなければ、誠に飛んだ考へ違ひをするものがあります。世に暴虎馮河の勇と云ふ事があります。勇氣と云ふ事は、何でも危險な事も構はないで進み、生命も何も打ち棄てて、火の中水の中へでも飛び込みさへすれば、それでよい樣に考へて居る人があります。成程、或る塲合には、さういふことの必要がないでもありませぬが、それは極めて稀な塲合であります。向ふ見ずに、無茶苦茶に、棄てばちになってやる事、それが勇氣とは決して云ふ事は出來ませぬ。それは昔の人の所謂匹夫の勇と云ふもので、眞の勇氣では御座いませぬ。

さらば眞の勇氣と、匹夫の勇との差は、何處にあるかと云ふ事を考へねばなりませぬ。眞の勇氣とは何んなもので御座いますかと云ふに、進むも引くも道の為にし、義の為にするもので御座います。で、何れが道か、何れが道でないか、其處に充分なる判斷がついて居らなければなりませぬ。

又其行為を決斷するまでには、神聖な純粋な感情に依って動かされなければなりませぬ。例へて申しませうならば、此處に一人の人があります。其人が刀を持って人と爭ひに行くといたします。其の爭ひに行くと云ふ行ひは、それで眞の勇氣であるか、ないかと云ふ事を調べて見ると、爭ひに行くにも種々あります。軍人となって國家の為に正邪の爭ひに行くのもあり。又詰らぬ恨みの為に我身を忘れて無謀な爭ひに行くのもあります。君國の為めに爭ひに行く人は、何故に自分は君國の為めに爭ひをしなければならぬか。自分は君國から何ういふ御恩を受けて居るか、といふ樣な事を充分に知って居って、其上に身を棄てても君や國に盡さうと云ふ一種の尊い感情に動かされます。其の智識も、其の感情も、極めて純粋なものであって、それによって意志は十分に決斷して、勇氣となるので御座いますから、其の勇氣は眞の大勇でありませう。然し右の如きは、男子に於いての塲合です。が、女子にも亦、男恥かしき眞勇を振って正義の為になった人が少なくありませぬ。一寸その一二の例を申せば、かやうな類であります。德川將軍治世の末に在った飯田のお藤は、妙齡の身を以て、藩主の側室若山といふ毒婦を斬って、主家を累卵の危きに救ひ、同じ德川氏時代に於ける、丸龜侯の家中の、孝女お里は、親の仇なる惡漢の武術者を打って、先考の怨恨の靈を地下に慰めました。その他、下婢おさつの仇打、赤穗義士の銘々の、母や妻等殿忠の大義の為に、その身を犧犠にして、眞勇を發揮した婦人も少なくありませぬが、又或ひは親、夫の虐待に耐へ、或ひは家の貧困を忍び、夫の難病に侍して、毫も倦める色無く、悲しめる氣色無く、他の惡を化して善と為し、傾けるを助けて全きを得せしめ、歴代の史傳記綠中に在る所のあまたの賢婦人達の如き、全く進んで取るの勇氣も、退いて守るの勇氣も、全身に滿ち溢れたやうな意志の堅固な婦人方で御座います。

所が、詰らぬ恨の為に身を棄てると云ふと、實に詰らぬ事であります。又詰まらぬ感情に動かされて居るので御座いますから、一時取り逆上せた時こそ身を忘れてかかっても、暫時經って、頭が冷えて來ると、詰らぬ事をしたと後悔するのであります。こんな勇氣は、眞の勇氣では無くて、一時の狂的動作であると申しても宜いのでございます。

そこで眞の勇氣のある人は、安心をして居って、世の中の事に迷ふ事はありませぬ。勇氣のある人は既に何の道が正しくて、那の道は正しく無いと云ふ判斷がついて居ります。又詰らぬ感情に動かされるといふ事はありませぬ。その判斷がついて居らなくて、邪でも非でも無暗にやり通すと云ふのならば、それは眞の勇氣ではありませぬ。既に道の正不正が明らかになって居る人でありますから、自分の行ふて行く行為の上に疑ひを抱くことがありませぬ。例へば春の朝に花鳥に送られ、美はしい太陽に迎へられて、樂しき野邊を行く樣に、心は何時も春風の吹いて居るやうで御座いませう。

眞の勇氣のある人は、決して濫りに他人と爭ひませぬ。既に我が行く道を知って居って、之れを樂しく進む人でありますから、他人に對して恨み忿るなど云ふ事はありませぬ。他人の過ち之を宥じ、我が過は何處までも改め、心の中は淸風名月の樣でありますから、人がよし之を怒らせようとしても、動きもいたしませぬ。其故、大勇は怯に似たりとまで云はれて居ります。

眞の勇氣のある人は、貪り望むと云ふ事はありませぬ。道とみれば進むと同時に、道ならずと見れば如何に勸められても決して入り立ちませぬ。他人が百萬の富を以て誘ふても、斷じて不正の事はしないと云ふ事は、大勇のある人でなければ、決して出來ない事であります。

又、眞の勇氣のある人は、失望しないのであります。心に守る所があって、其の為には百難千難を事ともしないのであるから如何に苦しい位置に立っても失望する道理はありませぬ。普通の人ならば、悲しみ歎きの眼を以て、中天を被ふ黑雲を見て泣いて居る時でも勇氣のある人は、喜び溢る々心の眼で其黑雲の上に照る太陽を見透して、それを樂しみ、それを喜んで居るので御座いますから、心は自から和いで居るのは、勿論その筈で御座います。

勇氣は決して男子に限ったものでは御座いませぬ。又一大事が起った時に初めて必要なものではありませぬ。凡ての人が、凡ての時に於いて持たなければならぬ德で御座います。家庭の風波も、一家の不經濟も、事業の失敗も、生活の困難も、又凡ての誘惑も、何も、彼も、眞の勇氣がない所から起って來るものと云はなければなりませぬ。

で一朝の怒りに嚇となって、疎暴な行為をして、後では夢の覺めたやうに悄然として、後悔したり、狼狽したり、又は心の裡では恐れて居る癖に、弱みを他に示すまいとして、大さうな事を云ったり、荒々しい擧動を示したりするのは、これは眞の勇氣とは似て非なるもの、虛偽の勇氣とでも申しませうか。婦人としてはこれらの事は最も愼むべきであります。即ちこれは、「内剛にして外柔」の反對に、外剛にして内柔とでもいふべきで、殊に爪彈きをせらる々次第であますから、能く他の失態に鑑みて、自ら省みなければなりませぬ。』