下田先生の著書を探していたときに、「まさか、順心高等女学校に関係する本など売られていないだろうな?」と思いつつ検索したところ出てきたのが今回の『順心女子学園六十年のあゆみ』でした。「こんなものまで、あるんだ」と思いながら、色々な発見がありそうだと思い、ちょっと迷いましたが購入することにしました。
『下田歌子先生傳』は実践女学校出版部の本であり、他の学校に関わることはほとんど書かれていなかったため、この購入は大正解でした。
編集:順心女子学園六十周年史編集委員
発行:昭和1984年10月
出版:学書房出版
順心女学校の創立
・『大正七年二月、校舎の移築が完了し、三月には学校設立の認可が東京府知事よりおりた。下田歌子先生を校長に推薦する手続きも終った。校名、学則、教育方針などはすべて下田校長に委嘱された。これらの開校準備の整うのをまって、直ちに本科第一学年五十名の生徒募集に着手した。先ず入学者の資格を「学業に志あるも恵まれない環境の故に希望の達成がはばまれている女子」とした。そして入学の許可を受けた者はすべて無月謝とし、学用品給与等の特典も附されることとした。当時このような学校の創立は稀有のことであったので各新聞もこぞって特種記事としてこれを報道し、宣伝に一役を買い、ために遠隔の地から応募するものも多くまたたくうちに定員に達した。』
画像出展:「順心女子学園六十年のあゆみ」
設立の認可
・場所:東京市麻布区広尾町官有地七十九番地二号内
・開校予定:大正七年四月二十日
校名の由来
・順心の校名は下田校長の命名による。
・婦徳の涵養を女子教育の中心命題とされる先生の教育理想を端的に表明されたものである。
・校名の由来については、昭和三年三月に創刊された順心高等女学校交友誌 姫小松の巻頭に、森本常吉教頭先生が詳しく解説されている。それによると、出典は中国周代の詩経、「女曰鶏鳴之章」にある。
・『順はイツクシムであり、順むとは志同じく道協ひて親愛することをいうと説いておられる。「順」は人間本然の性をもとずくものであり、女子のみに求められる徳ではない。人間は男女それぞれがもって生まれた特性を生かしながら、互いに順み、補い合い、協力し合うところに其の幸福はあるもの。下田先生は女子教育の殿堂である我が校の校名を「順心」とおきめになったのは、男女の平等をその本質においてとらえた上で、婦徳の象徴としてもっともふさわしいものと考えられたからであろう。時代の激動の中にあっても「順心」は燦たる光輝をはなつ、すばらしい校名である。』
校歌・校章(順心高等女学校)
・校歌:下田先生自詠の和歌、“神ながら変わらぬ道に新しきかげおもそえよ大和姫小松”に曲付けされたものだった。
・訓歌:“曇りなきいろに匂いて仇し世のちりをなすえそ大和撫子”。生徒たちは校歌とともにこの訓歌を、日夕これを朗詠した。
・校章:現在の校章は、この二つの歌の心をからつくられた。清楚でやさしいなでしこの花と、風雪にたえ岩頭に逞しく常緑を誇る強さをもつ姫松によって象徴されている。
下田校長略伝
・安政元年(1854年)八月八日生まれ
・明治十七年五月、夫である猛雄氏が三十七才の若さで永眠。家庭生活は五年に満たなかった。
・四十九才のときから支那語(中国語)の勉強を始めた。
・六十六才の時、順心を含めて五つの学校の校長の職に就いていた。
・大正七年~昭和十一年の18年間を務めた。
・昭和十一年十月八日午後十一時、逝去さる。
・『先生は明治大正昭和三代を通じ、日本の女子教育の第一人者として不滅の業績を残され、民間女性として達し得るべき最高の御恩寵を皇室より戴かれた。教育界にある人だけでなく、先生の訃報に接した多くの人々は国家の一大損失と哀惜の情を寄せられた。万余の教え児達の哀哭のうちに、その代表が筆を執り護国寺に先生をお送りし、ここで先生は永遠の眠りにつかれた。
わが順心学園は、生みの親でもあり、育ての親でもあられた先生を失った。同年十月二十八日下田先生の追悼式が講堂で行われた。田所校長をはじめ職員生徒は励論、名士貴顕、卒業生など多数が参列し、しめやかにしかも盛大な式が挙げられ、一同先生の御遺徳を偲びつつ、御冥福を祈った。』
画像出展:「順心女子学園六十年のあゆみ」
画像出展:「順心女子学園六十年のあゆみ」
画像出展:「順心高等女学校第二回卒業記念」
順心創設のころ
・『大正七年、先生六十六才のとき、財団法人大日本婦人慈善会経営の順心女学校の創立に参加され、その校長になられた。勿論先生を敬慕していた板垣退助婦人ら朝野の名士夫人たちの懇望によってではあるが、本校設立の趣旨に賛同され、実践の姉妹校としてその教育を引き受けられたものと思われる。一般的には老境に入られる年にして先生は、順心を含めて五つの学校の校長として、その経営と教育に東奔西走されていた。教えて倦むことなき先生の女子教育に注がれた情熱は、けだし驚嘆に値するものがある。先生の教育的見識は学校という場で着々と実現されていたばかりでなく、王朝時代の紫清をこえる人として洛陽の紙価を高からしめた等身の著述により、広く日本女性の教養を高めることに貢献されていた。
大正九年社団法人愛国婦人会会長に推された。大正十二年の関東大震災に際しては愛国婦人として救血活動に精根を傾けられた。従って大正十三年の順心高等学校の創設を殊のほか喜ばれ、校長就任を快諾されたという。また、大正十四年には滋賀県下の淡海実務学校の校長も兼ねられることになった。昭和二年に愛国婦人会長を辞され、学校教育のみに専念されることになった。先生は大正七年から昭和十一年まで、十八年もの長い間、順心女学校、順心高等学校の校長として、本校教育の基盤を培われ、その発展に尽された。本校は先生の他の兼務校とちがい実践学園とは距離的にも近く、先生の声咳に接する機会を生徒たちは多くもつことができた。特に先生晩年の昇華し尽した高い教育理念のエキスをいただきながら育てられた順心は極めて恵まれた学校というべきである。』
下田校長と順心
・『下田校長の六十余年に及ぶ育英のお仕事の前半は、その対象が主として、桃夭学園、華族女学校、学習院に学ぶ皇族、華族といったいわゆる上流家庭の子女たちであった。しかしその間にあっても先生は、日本の将来のためには一般勤労階級の子女の教育がより重要であることを考えておられた。明治三十一年には、内親王教育係という宮廷生活のかたわら、帝国婦人協会を設立され、付属の実践女学校並びに女子工芸学校をつくられた。そしてこれが先生の一般女子教育の出発点となった。翌三十三年には同協会新潟支部付属新潟女子工芸学校の設立をみている。先生は畏敬する祖父東条琴台翁の遺訓を堅く守られ、子女教育の根幹はあくまでも婦徳の涵養と、生活に直結する知識技能を身につけさせることにあるとの立場を堅持されていた。明治四十一年五月学習院女教授兼学部部長という栄職を最後に公的生活を離れられ、私学の女子教育に専念されることになった。そして先生の教育信条はそれからの後半世に遺憾なく、見事に実現されていった。
大正六年大日本婦人慈善会の板垣絹子会長ら朝野の名士夫人たちは順心女学校を創設して、恵まれない家庭にありながら、しかも向学心に燃える子女の教育を考え、現今の奨学資金制度の先駆けともいうべき給費制の実施を決意された。これと勤労子女の教育に情熱をおもちの下田校長のお考えが完全に一致して、先生は夫人たちの要請に応えられて、無償でその教育計画のいっさいを引き受けられた。すなわち順心女学校は夫人たちの憂国の熱意と、下田校長の教育的信念の結合によって生まれた勤労子女の教育殿堂であった。そして下田校長六十五才の春、大正七年五月三十日順心女学校はその授業を開始した。』
・『先生の育英の業は昼夜にわたるものであり、勤労子女の教育にそそがれる熱意はまさに超人的なものであった。その中にあって共愛会の手になるわが順心女学校には毎週必ず出校され、生徒たちに訓辞されていたというが、先生は順心女学校を勤労子女教育のモデル校として、とりわけ愛されていたように思われる。この故に関東大震災後、東京の教育荒廃を黙示できずに共愛会がやむにやまれず順心高等学校の設立にふみきった時も、これを誰よりも喜ばれ、校長就任を快諾されている。先生にとって順心女学校と順心高等学校は、同じ教育理想によって育つ姉妹校であった。』
下田校長の国際的視野に立つ教育と順心
・宮中奉仕のかたわら和漢の学に励まれていたが、フランス人から日本文学の指導と交換にフランス語の指導を受けておられた。
・明治二十八年五月の渡欧では、大英帝国のヴィクトリア女皇に、日本女性として初めて拝謁を許された。その時の先生の緑袿緋袴の宮廷の正装は人々を魅了した。先生は何時でも何処でも日本女性としての矜持を失われることはなかった。
・人一倍皇室尊崇の念の厚かったが、「お国のために」という名による煽動におどる浅薄な主体性なき教育者を誰よりも嫌っていた。
下田校長の師道と順心
・『先生は人を教育するということは、その人間の魂の成長に関与することであり、教育者はその一挙一動をおろそかにすべきでないと説かれている。先生の教えを受けた万余の教え児たちの心の中には壇上の先生のお姿が教師の理想像として刻まれていたことは事実である。幾人かの教え児の方からこんなことをきかされた。「先生は鐘の鳴る前に教室に行かれ、鐘の音とともに入口のドアーをお開けになって壇に進まれた。そして号令なしに会釈をかわされて静かに話をおはじめになるのが常だった」と。』
順心高等女学校の創立
・『(関東大震災により)校舎が焼失し復旧の見込なく廃校するものが続出し、学ぶに所なき女子生徒たちを出してしまった。こうした教育の危機に臨んで共愛会の夫人たちはこの焦眉の急を救うべく、万難を排する決意で立ちあがられた。幸にも順心女学校の所在する広尾一帯は大きな災害をうけることもなく、校舎も無事であり、その収容能力にも余地を残していた。共愛会ではとりあえず順心女学校の校舎の一部を利用して普通制高等女学校を創設することにし、大正十三年四月開校を目途に準備が進められた。想えばわが学園のある麻布広尾一帯は、広尾ヶ原とよばれて江戸の郊外であり、春の摘草、秋の紅葉や虫の名所としてきこえ、杖をひく文人墨客の絶えない閑雅な地であった。明治以降都市化が進み、人口も増加し、住宅も密集するようになってきたが、なお緑豊かな静寂な環境は保ち続けられてきた。こうした場所にある順心女学校は、学校として必要な立地条件の多くを満たして存在する恵まれた学校であった。焦土と化した東京で学び舎を求める女生徒のために、環境に恵まれしかも交通至便な都心の一角に、新しい高等女学校を創設するということは、時宜を得た企画であったにちがいない。しかし共愛会の手による順心高女の誕生には並々ならぬ苦労があった。夫人たちも普通教育に手を染めるのははじめてであり迷いのあったことも想像に難くない。下田校長が校長兼務を快諾されたことは夫人たちの大きな力となったことであろう。下田校長の教育的識見にもとづく指導と助言により、いっさいの準備は完了し、大正十三年三月五日順心高等女学校の開校認可があり、三月十八日に下田校長の校長就任が正式に決定した。かくて緑にうえていた女生徒たちが心をはずませながら順心高等女学校の校門をくぐることとなった。』
画像出展:「順心女子学園六十年のあゆみ」