ウォルト・ディズニー2

著者:ボブ・トマス

訳:玉置悦子/能登路雅子

発行:初版1983年1月

出版:講談社

目次は”ウォルト・ディズニー1”を参照ください。

2.作品の制作に大切なこと

『ウォルトはこの年、1934年、ディズニー美術教室の授業を昼間部にも拡大することにした。そして講師のグラハムをスタジオの正社員とし、週の三日は昼間部の指導、二日は夜間クラスで教鞭を取らせた。グラハムは、ウォルトとともに、“スウェットボックス(汗かき部屋)”に何時間も籠って、新人アニメーターのペンシル・スケッチを写した写真を検討したり、また週に二度、アーティストをグリフィスパークの動物園に連れていき、動物を写生させたりした。一方、夜間クラスは週五日開かれるようになり、アニメーションの技法、キャラクターの描き方、レイアウト、背景画法などのクラスに150名のスタッフが参加した。

1935年のはじめ、ウォルトの将来計画がだんだんと固まりつつあったときである。ウォルトは、アーティストを300名ぐらい集めてほしい、とグラハムに指示した。そこで、カリフォルニアからニューヨークに及ぶ地域の各新聞に求人広告が掲載され、応募者を次々と面接しては彼らが持参した作品に目を通した。

同年、ウォルトがグラハムに宛てて書いた洞察力あふれる長いメモには、それまで16年の経験から引きだされた彼のアニメーションに対する信条が、これまでになく明確に表れている。このメモの中で、ウォルトが優秀なアニメーターの資質としてあげた条件は、次のようなものであった。

一 デッサンがうまいこと

二 劇画化の方法、ものの動き、ものの特徴などをつかんでいること。

三 演技に対する目と知識をもっていること。

四 いいギャグを考えだすと同時に、それをうまく表現できる能力があること。

五 ストーリーの構成と観客の価値観について熟知していること。

六 自分の仕事に関する一連の機械的な部分や、細かい決まりきった作業をも、すべてよく理解していること。

そうすれば、こうしたささいな点で立ち往生することなく、アニメーター本来の能力を発揮できる。

さらに、アニメーション制作の技術にも科学的なアプローチが可能であると確信していたウォルトは、自分の見解をこう結論づけている。

まず第一に、漫画を描くということは、実際のものの動きや対象をあるがままに忠実に描きだすことではなくて、生き物の姿や動きを滑稽に誇張して描くということだ。……

コメディーがおもしろいものになるには、観客との接点がなければならない。接点という意味は、見ている者の潜在意識の中でなじみ深いものを連想させる何かがあるということだ。スクリーンの上に映し出された状況と同じような感じを観客自身が、いつか、どこかで抱いたとか、そういう場面に出会った、見た、あるいは、夢で見たことがある、といった具合に。……観客との接点と僕が呼んでいるものは、こういうことなのだ。アクションやストーリーがこの接点を失ってしまうと、観客の目から見てつまらない、ばかげた作品になってしまうわけだ。

だから本当の意味での劇画とは、現実のもの、可能なもの、ありそうなものに対する空想的な誇張ということになる。……今、僕が述べてきたことの背後にあるこの考え方を授業のあらゆる段階で、つまり、写実的なスケッチから、作品の企画・制作にいたるまで、生かしていければいいと思う。……』 

『ウォルトは一方、「アニメーションの芸術」という本の出版を進めていた。彼としては、この本の中でアニメーションの歴史を紹介し、とくにディズニー・スタジオがその歴史にどう貢献したかを強調するつもりでいた。さらに、ウォルト自身の目的を達成するためになくてはならなかった才能あるアーティストたちに、敬意を表したいという気持ちもはたらいていた。スタジオで行われたこの本の企画会議で、ウォルトは映画制作に関する自分の理論を詳しく述べている。

この本が机上の芸術論にならないようにね。僕らがやってきたのは、もっと俗っぽい商売なんだから。象牙の塔には縁がないんだ。……

僕らの仕事は技術的なことで成り立っているんじゃない。アイディアってやつは、鉛筆書きのスケッチからだって生みだせる。いま、僕らが持っているいろんな道具がなくたってね。……

僕らの作品がよそのものとどこが違うのか。僕らは、自分たちのやっていることを秘密にしたことなんかない。僕らが他人と違うところは、考え方、判断力、長年の経験だよ。作品に心があるんだ。よその連中は大衆をほんとうに理解していない。僕たちは何をするにしても、心理的なアプローチを工夫してきた。大衆の心の扉をとんとんとたたく、そのタイミングを僕らは心得ている。ほかの連中は知性に訴えようとするが、僕たちは感性に訴えることができる。知性に訴えようとしたら、ほんのひと握りの人たちにしかアピールしないよ。……

漫画という素材は、はじめは目新しさだけで売っていた。ほんとうにヒットしたのは、僕たちが単なるトリック以上のことをやりだしてからだった。つまり、登場人物の性格づくりを絶えずしていくということだけど、ただ笑わせる、ということ以上のものじゃなきゃならない。映画館の通路で客が笑いころげていても、それでいい映画を作ったことにゃならんよ。その中にペーソスがなくちゃあ。……

“ウォルト・ディズニー”っていう名前をどうしてこんなに強調してきたのか。理由はたった一つだ。その名前が作品全体にある個性を与える、っていうのかな。単に「ナニナニ映画会社制作」っていう意味じゃなくて、名前自体が一つの人格みたいなものをもっているんだ。いや、実際は、“ウォルト・ディズニー”っていうのは、たくさんの人間を集めた組織なんだ。一人一人が協力してアイディアを分け合う。それは、一つのりっぱな業績なんだよ。…… 』

3.ミッキーマウスとウォルト・ディズニー

『いわゆるインテリ評論家たちは、ミッキーの人気を大衆心理学に照らして説明しようと試みた。ウォルトはこれがおかしくてしかたなかったが、そういった理論にはたいして興味を示さず、自分なりの解釈をほどこしていた。

「ミッキーというのは人畜無害のいいやつでね。窮地に陥るのも自分のせいじゃない。でも、いつもなんとかしてはい上がってきては、照れ笑いをしているかわいいやつなんだ」

ウォルトは、ミッキーの性格の多くの部分がチャーリー・チャップリンからヒントを得たものであるということを認めていた。

「チャップリンの、あの、ちょっともの寂しそうな雰囲気をもった小ネズミにしようと思ってね―。小さいながらも自分のベストを尽くしてがんばっているっていう姿だな」

だが実際にできあがったミッキーは、チャップリンよりウォルト・ディズニーの要素のほうを多分にもっていた。それがもっともはっきり表れているのは、ミッキーの声である。ウォルトの神経質そうであわてたような裏声は、いかにもミッキーにぴったりである。そしてミッキーのせりふは、よく、恥ずかしそうな「ヘッヘッヘ」という声で始まっていた。そういう不自然で変わった声をもっともらしく出すという芸当は、並たいていのことではなかったが、ウォルトはなんとかこなした。「ウッ、これは大変だ」と、よく一瞬どぎまぎするミッキーのためらいがちな性格はウォルト以外、誰も的確に表現できなかった。

似ているのは声だけではない。ウォルトもミッキーも冒険心や正義感にあふれているが、知的教養とはあまり縁がなかった。そして二人とも、成功したいという少年のような野望を抱き、ホレイショ―・アルジャー[Wikipedia]の立志伝に出てくるような裸一貫からたたきあげた人間像に臆面もなく憧れていた。それに、たった一人の女性に生涯忠実であるという、昔ながらの道徳にしがみついている点でも似ていたのである。

ウォルトとミッキーの、こうした隠れた共通点に気づいたディズニーのアニメーターたちは、ミッキーを描くときにはウォルトの性格を念頭に置いてみた。すくなくとも潜在意識の中では、そうしていたはずだった。どういう格好の漫画を描いて欲しいかを説明するウォルトは、例のすぐれた役者ぶりを発揮し、せりふの一行一行を演技してみせた。特に、彼の演ずるミッキーマウスは非常に正確で感じがよく出ているため、アニメーターたちは、ウォルトの表情や動作をそのままとらえることができたら、といつも願っていたほどだった。事実、あるせりふをしゃべるミッキーの顔がどうしてもうまく描けなくて困り果てていたアニメーターが、せりふを吹き込み中のウォルトの顔をカメラに撮らせてもらい、やっと納得のいくミッキーに仕上げることができた、というエピソードもある。

またウォルト・ディズニーは、ミッキーの品性を懸命に守ろうとした。そしてストーリー会議では、よく、「ミッキーはそういうことはやらないよ」と、口をはさんだ。

それは、ギャクマンがつい調子に乗りすぎ、抱腹絶倒のコメディーにしようとするときで、ウォルトは、ミッキーの自然な性格から脱線しそうだということを的確に察した。だからこそ、ミッキーマウスは世界じゅうの人々から愛されるようになったのであり、その点では、ほかのどんなキャラクターもミッキーにはかなわなかった。ミッキーはこのうえなく愛すべき主人公として、常に自分自身であり続けたのだった。 

そもそも、「ファンタジア」の企画が生まれたのは、ウォルト・ディズニーがミッキーマウスのゆく末を心配したことに端を発していた。ウォルトはこのネズミに対して一種独特の愛着をもっていた。ミッキーは彼にとって、単に漫画のドル箱スターでもなければ幸運のお守りでもなかった。ウォルトは、自分がミッキーの声でもあり分身でもあると感じていたから、ミッキーマウスの活躍する舞台が狭まっていくのは見るに堪えなかったのである。

大きさの違ういくつもの円を寄せ集めて描かれたミッキーマウスは、登場したてのころ、なんでもやってのけた。が、その動作は、アニメーターが“ゴムホース方式”と呼んだ動き方、つまり骨も関節もないホースのような、実際の人間や動物の動きとは似ても似つかない動き方であった。しかし漫画がだんだん洗練されたものになるにつれ、ミッキーも変わっていった。登場人物の体を自由につぶしたり伸ばしたりしてアクションを誇張する“スクォッシュ・アンド・ストレッチ方式”をミッキーのアニメーションにはじめて使ったフレッド・ムーアのおかげで、ミッキーマウスはもっと人間っぽく魅力的になったのである。

ミッキーが従来より柔らかな顔かたちになったといっても、問題はまだ残っていた。かわいらしくはなったが、昔の漫画に見られた素朴なバイタリティーが失われてしまったのである。また、彼は元来、恥ずかしがりやで目だたないキャラクターであるため、滑稽な事件を引き起こしてまわる積極的な役は不向きであった。その手の役は、ドナルドダック、ブルート、グーフィといったミッキーのわき役として登場する、もっと露骨な性格のキャラクターにまわされていた。そして、こうしたわき役たちは例外なく、それぞれ自分のシリーズものでスターとして独立していった。

1938年、ウォルト・ディズニーは「魔法使いの弟子」 をアニメーションにし、ミッキーマウスを主人公とすることに決めた。「魔法使いの弟子」は古いおとぎ話で、ゲーテが誌にも詠み、フランスの作曲家ポール・デュカスによって交響詩にもなっていた物語である。ミッキーは魔法使いの修業中、魔術を悪用したためさんざんな目に遭う役で、デュカスの曲に合わせながらパントマイムだけで構成するという趣向であった。ウォルトは、せりふがまったく入らないということを喜んだ。というのはミッキーがいく通りもの役をこなしきれないのは彼の声、つまり、ウォルトのためらいがちでかん高い裏声が原因ではなかろうかと思っていたからである。

☆声優

・初代:ウォルト・ディズニー(1928年-1947年)

・2代目:ジム・マクドナルド(1947年-1977年)

・3代目:ウェイン・オルウィン(1977年-2009年)

・4代目:ブレット・イワン(2009年-現在)

4.ディズニーランド誕生

『それまで25年間、毎年12月になるとウォルト・ディズニーはオレゴン州のポートランドに住む妹のルースに近況報告を書く送り、家庭内やスタジオでのできごとなどを知らせていた。彼は、1947年12月8日付けの手紙にこう書いている。

僕は、自分の誕生祝いとクリスマスのプレゼントを兼ねて、いままでずっと欲しいと思っていた電気機関車のおもちゃを買った。君は女だから、僕が小さい時からどんなにこれが欲しかったか、おそらく理解できないだろうけど、やっとそれを手にした今、嬉しくてしかたがない。僕のオフィスの隣の、廊下側の部屋に置いて、暇さえあればそれで遊んでいる。この貨物列車は汽笛も鳴るし煙突からほんとうの煙も出てくる。線路のほうには切り換え線も信号機も駅もみんなついていて、とにかくすごいんだ」

ウォルト・ディズニーは汽車というものに神秘とさえいえるほどの不思議な魅力を感じていたが、そもそものはじまりはミズーリ州の農村で過ごした少年時代、機関士だった伯父の運転する汽車に向かって手を振った思い出にさかのぼる。大人になってからは、ロスフェリスの自宅から数キロしか離れていないサザン・パシフィック鉄道のグレンデール駅に行って、線路の震動を感じたり、サンフランシスコ行きの客車が通り過ぎていくのを眺めるのが好きだった。』

『彼は自分の汽車を作る計画を立てはじめた。まず、スタジオの機械製図工であるエド・サージャントに、旧セントラル・パシフィック173型の機関車を八分の一に縮小した模型を設計させた。そして部品の原型はスタジオの小道具製作部で作らせ、鋳鉄と組み立ては、やはりスタジオの作業場で機械工ロジャー・ブロギーが監督した。ウォルト自身、板金の工作を習いながらヘッドランプと煙突をこしらえたし、また、フライス盤を操作して部品を作ったり、細かい部品のはんだ付けもした。さらに、木製の有蓋貨車や家畜列車の製作も始めた。

ウォルトはその鉄道をキャロルウッド・パシフィック鉄道と名づけると、例によって綿密な計画を進めていった。汽車の一両一両は個々にデザインをし、とくに車掌車は凝りに凝ったしろものだった。中に入れる簡易ベッド、衣服用ロッカー、洗面台、だるまストーブなどの縮尺もきっちり決め、おまけに1880年代の新聞までミニサイズで作って新聞立てに置いた。ウォルトは、スタジオ内のステージに100m足らずのテスト用線路を敷き、従業員に乗車をすすめたりしたが、その試運転がうまくいくと、今度は屋外に線路を敷いてみるという念の入れようであった。

彼は結局、自宅の敷地のうち、峡谷に面している側に沿って約800mの鉄道を敷くことにした。そしてその場所を慎重に調査し、近所迷惑にならないよう、周りに木を植えたり線路の高さを低くおさえる配慮をした。さらに汽車の乗客に目ざわりとなるようなものをなくすために、電線などもわざわざ金を払って見えない場所に配線しなおしてもらった

画像出展:「ウォルト・ディズニー」

Pure Smileというサイトに「ドキュメンタリーが伝えた空前絶後のクリエイター、ウォルト・ディズニー」という記事があり、その中央にはキャロルウッド・パシフィック鉄道のカラー写真があります。

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ウォルト・ディズニーが情熱を傾けるものは、それがたとえ趣味だとしても、かならずそこにははっきりとした目的があった。このキャロルウッド・パシフィック鉄道も、ディズニー・プロダクションズの新しい種類の事業としてだんだんとウォルトの胸の中でふくらんでいた、ある計画の一部であった。

彼が後に語ったことであるが、この新しい事業のきっかけというのは、もともと、娘のダイアンとシャロンを日曜学校の帰りによく遊園地に連れていったことから生まれたものである。娘たちが乗り物に乗っているあいだ、ウォルトは、ほかの親たちが退屈そうに待っている姿や、回転木馬の剝げかかったペンキ、掃除のゆき届かない汚らしい園内、それにむっつりして無愛想な係員などをじっくり観察したものだった。

また、もう一つの別の動機もあった。ウォード・キンボールと話しているときに、ウォルトはこう言った。

なあ、君、観光客がハリウッドに来て何も見るものがないっていうのは、まったく情けないことだよ。みんな、華やかな雰囲気や映画スターが見られるんだと思ってやってきても、がっかりして帰っちまう。このスタジオを見学に来る人間だって、いったい何を見られるかっていうんだい。せいぜい男どもが机に向かって絵を描いているところぐらいだろ。ハリウッドに来て、何か本当に見る者があったらいいと思わないか?

それ以来ウォルトは、遊園地を作る計画のことをたびたび口にするようになった。リバーサイド通りの向かい側にスタジオが所有していた11エーカーの三角形の土地をそれに充てるつもりで、彼は実際に構想を練りはじめた。そして名前は“ミッキーマウス・パーク”にしようと考えた。1948年8月31日付けのメモには、彼がそれまでに思いついた事柄の骨子が書き記されている。

メインビレッジは、鉄道の駅があって、緑の公園というか、憩いの場所を囲むようにできている。園内にはベンチやバンド用ステージ、水飲み場などがあり、また大小の草木を植える。ゆっくり腰をかけて休んだり、遊んでいる小さな子どもたちを母親やおばあさんが眺めたりできる。くつろいだ感じの涼しくて魅力的な場所にする。

緑の公園の周りに街を作り、その一方の端に鉄道の駅を置く。反対側に町役場。これは、外見は役場でも実際は我々の管理事務所に使用し、遊園地全体の本部とする。

町役場の隣には消防署と警察。消防署には形はすこし小さいが実際に使える消防器具を備え付け、警察署も実際に使えるようにする。客が、規則違反や遺失物、迷子などをここに知らせにくる。中に小さい牢屋を作って、子どもたちが覗いて見られるようにしてもよかろう。ディズニーのキャラクターを牢屋に入れるのも一案。

メモにはつづいてそのほかの建物やさまざまな店、乗り物についてのウォルトのイメージが書きとめられていた。

ウォルトがミッキーマウス・パークのことを口にするたびに、兄のロイはバンク・オブ・アメリカからの膨大な借金のこと、それに、戦後のディズニー映画の興行収入が依然として低迷していることを指摘した。ロイは、遊園地の建設事業が経営上まったくの愚行であることを弟に十分納得させたものと信じていたので、商売上の知り合いからの問い合わせに対しても、こう書いた。

「ウォルトは遊園地の建設計画についていろいろ口では申しておりますが、実のところ、どれだけ本気なのかは私にもわかりかねます。私が思うに、本人は自分で実際に遊園地を経営するというより、むしろ遊園地にこういうものがあったらいい、という種々のアイディアに関心をもっているようです。それに税金の関係もありますので、このようなことを実現するだけの資金を本人は持ちあわせておりません」。』

遊園地建設の構想は、ウォルト・ディズニーの心の中でだんだんとふくらんでいった。ヨーロッパやアメリカ国内を旅行するたびに、彼はいろいろな屋外娯楽施設、特に動物園をよく訪れたので、ふたたびヨーロッパに出かける前、妻のリリーから、「ねえ、あなた、また動物園に行くんでしたら、私はもう一緒に行きませんからね」と、言われてしまった。

ウォルトは、郡や州が主催する農畜産物の見本市や、サーカス、カーニバル、国立公園なども見てまわり、どんな出し物が、なぜ人気を呼ぶのか、客は楽しんでいるか、それともせっかくやってきても損をしたと思っているか、などをつぶさに観察した。

彼がもっともがっかりしたのはニューヨークのコーニーアイランドに行ったときで、その施設の荒廃ぶりと安っぽさ、そして乗り物の係員のとげとげしい態度に、ウォルトは一時遊園地を作る自分の計画を投げてしまいたい気持ちに駆られたほどである。しかしコペンハーゲンのチボリ・ガーデンを見たときは、やる気がふたたびよみがえった。ゆきとどいた清掃、あ鮮やかな色彩、納得できる料金、陽気な音楽、おいしい飲食物、暖かな感じで礼儀正しい従業員―こうしたすべての要素が溶けあって一つの楽しい世界を作りだしていた。「これだ! 本当の遊園地は、こうでなくちゃだめだ―」ウォルトは夢中になって、リリーに言った。』 

画像出展:「NAVIA|北欧Webメディア

『デンマークのコペンハーゲンには、現在もオープンしている世界で最も古い遊園地の1つである「チボリ公園」があります。

アンデルセンなど、多くの有名人も過去に訪れ、多くの人を楽しませてきたデンマークでも老舗中の老舗とされています。チボリ公園は1843年に創業し、以来、世界中から多くの観光客を魅了してきました。

ロイは相変わらず遊園地建設に反対だったので、計画の立案も資金繰りも兄に頼ることはできなかった。自分の生命保険を担保にして借金をしはじめたウォルトを見てリリーは狼狽したが、パークが完成する前に、その借金は十万ドルに達したのだった。

計画立案のスタッフを揃えにかかったウォルトがまず選びだしたのは、イラストレーターのハーパー・ゴフである。ゴフは早速パークの予備的なスケッチを描くよう指示を受けた。パークの名前は、すでにウォルトが決めていた。“ディズニーランド”である。

構想が進んでいくにつれ、ディズニーランド建設を推進する組織の必要性を感じたウォルトは、1952年の12月、ウォルト・ディズニー株式会社を発足させて自分が社長になり、ビル・コトレルを副社長に据えた。しかしその後、ウォルト・ディズニーの名前をほかで使うことにディズニー・プロダクションズの株主が反対するかもしれないとロイが危惧を抱いたことから、ウォルト・イライアス・ディズニー(Walt Elias Disney)の名前の頭文字を取ってWED[ウェド]エンタープライズと改名された。こうしてWEDはスタジオ以外のウォルトの活動を支える個人的な企業組織として誕生した。

ディック・アーバインはWEDの新入社員であった。彼は映画「空軍力の勝利」の美術監督を務めた人物だったが、戦時中ディズニー・プロダクションズが低迷していた時期に20世紀フォックス社に移っていた。が、テレビ番組を作りはじめたウォルトにデザイン担当として担当として呼び戻され、さらにその後、ディズニーランド担当となったのである。アーバインに与えられた最初の仕事は、ディズニーランドの予備調査を委託された設計事務所とのパイプ役であった。しかし建築家たちの意見とウォルトの構想とのあいだにくい違いが生じ、契約は破棄される結果に終わってしまった。ウォルトの親しい友人で自らも建築家であるウェルトン・ベケットは、

「ウォルト、君意外に誰もディズニーランドの設計ができる人間はいないよ。自分でやるんだな」と、忠告した。

1953年の夏の終わりまでには借りた金も底をつき、ウォルトは別の資金ルートを探さねばならなかった。ある夜、ベッドで眠れぬまま横になっている彼の頭に、ふとある考えが閃いた。<テレビだ! テレビ番組でパークの資金を作るんだ!>

翌朝、そのことで弟から相談を受けたロイは、ウォルトがディズニーランドに関してはじめて理屈に合う提案をしてきたと感じた。しかし、これは会社の重要問題なので、理事会の承認が必要であった。

理事会ではたいていの場合ウォルトの意見が通ったが、テレビ番組と遊園地経営という二つの新分野に進出することに関しては、保守的な理事の反対に出会った。ウォルトは立ち上がって言った。

「テレビが、ディズニー映画を大衆に宣伝する重要な媒体であることは、あの二本のクリスマス番組ですでに証明済みです。レギュラー番組を制作しようと思えば、内容ももっといろいろ工夫しなきゃならないし、金もたんといる。ディズニー映画を劇場に見にくる観客の数がずっと多くなるという効果は別として、儲けはわずかしか、いや1ドルだってないでしょう。しかし、それほどまでに頭脳とエネルギーを注ぎ込んでテレビ番組を作るとしたら、私はそこから何か新しい収穫が得られるようなものを作りたい。私は、会社を足踏み状態にしておきたくないのです。考えてみてください。我々が今まで繁栄してきたのは、リスクを承知で常に新しいものを試みてきたからです

遊園地の経営などは本来、ディズニーの仕事ではないと不満を述べる理事に対し、ウォルトはこう答えた。

「ええ、しかし、わが社は今まで、娯楽を作りだすという商売をやってきたのです。遊園地こそ、娯楽そのものではないでしょうか。正直言って、いま、私の頭の中にあるディズニーランドのイメージをみなさんに思い浮かべていただくのは、むずかしいでしょう。でも、これだけは言える。世界じゅうどこを探してもこんなパークは絶対にない。私はいろいろ見て回ったから知っています。ユニークであるからこそ、すばらしいものになる可能性がある。娯楽というものの新しい形なんです。ぜったいに成功する、と私は思う。いや、そう信じています

語り終えたウォルトの目には、涙さえ浮かんでいた。理事たちは彼の論理に納得した。』

『ハーブ・ライマンは、月曜の朝までに図を完成させた。そして何枚かのコピーを作ると、ディック・アーバインとマービン・デービスが色鉛筆で手早く彩色した。いっしょのホルダーの中に納められたのは、ビル・ウォルシュが書いたパークの説明文で、この文中にはじめてディズニーランドの概念がはっきり定義づけられた。

ディズニーランドの構想はごく単純なものであり、それは、人々に幸福と知識を与える場所である。

親子が一緒に楽しめるところ。教師と生徒が、ものごとを理解したり学びとるための、より良い方法を見つけるところ。年配の人たちは過ぎ去った日々の郷愁にふけり、若者は未来への挑戦に思いを馳せる。ここには、自然と人間が織りなす数々の不思議が私たちの眼前に広がる。

ディズニーランドは、アメリカという国を生んだ理想と夢と、そして厳しい現実をその原点とし、同時にまたそれらのために捧げられる。こうした夢と現実をディズニーランドはユニークな方法で再現し、それを勇気と感動の泉として世界の人々に贈るものである。

ディズニーランドには、博覧会、展示会、遊園地、コミュニティーセンター、現代博物館、美と魔法のショーなどの要素が集大成されている。

このパークは、人間の業績や歓び、希望に満ちている。こうした人類の不思議をどうしたら私たちの生活の一部とすることができるか、ディズニーランドはそれを私たちに教えてくれるだろう。

説明文は続いて、パーク内に作られる「自然と冒険の国」、「未来の世界」、「こびとの国」、「おとぎの国」、「開拓の国」、「休日の国」の各領域を詳細に紹介していた。

それは実に大胆きわまる、ぜいたくな計画であった。しかし説明書には、あっさりとこんな予告が書かれていた。「1955年のある日、ウォルト・ディズニーが世界じゅうのみなさま、そしてあらゆる年齢の子どもたちに、まったく新しいタイプの娯楽をお贈りいたします―』

画像出展:「The Art of Walt Disney」

ハーブ・ライマンが描いたディズニーランドの鳥瞰想像図。

ディズニーランド建設とテレビ番組の計画は1954年4月2日に発表された。ウォルトが、番組は同年10月に始まり、パークは翌年の7月にオープンするとはっきり宣言したのは、自分がどれだけ本気であるかを示すためであった。彼は早速ディズニーのベテランスタッフを集め、「冒険の国」、「おとぎの国」、「開拓の国」といったパークの“国”別に構成されるテレビ番組の制作に当たらせた。一方、パーク建設の担当班は小さな平屋の建物からアニメーションビルの一階に移動し、計画はいよいよ実行段階に入った。』

『ディズニーランドの設計にスタジオの美術監督を使うことには、難点が一つあった。彼らは、通常2、3日使えばあとは取りこわすという映画のセットを設計することにはたけていたが、長い年月で激しい風雨、数百万の見物客に耐え得る建物をこしらえる知識に欠けていたからだ。それでウォルトは、土木、電気、空気調節の分野の専門技師を1名と、構造技師のいる建築事務所に特別の応援を頼んだ。

また、工事にあたって現場の親方が必要であった。そこでディズニーランドの総合本部長ウッドがウォルトに紹介したのは、元海軍大将で技師としてコンサルタントの仕事をしていたジョー・ファウラーであった。パークの感じをつかむために一度来てほしいというウォルトの依頼を受けたファウラーは、ほんの1、2日の予定で北カリフォルニアの自宅からスタッフにやってきたが、到着するなり自分の部屋と車をあてがわれ面食らった。下請け業者たちとの話し合いを済ませて彼が帰宅したのは、それから3週間もあとのことだった。ファウラーはこうしてディズニーランドの工事監督としておさまることになり、結局その後10年間、パークで働いたのである。』

ウォルトはエンジニアから知識を貪欲なまでに吸収し、まもなく機械の図面も本職と同じくらい読めるまでになった。エンジニアたちはときどき、映画撮影では容易に出せる効果も遊園地で出そうとするのは現実的でない、とウォルトに言うことがあった。しかし、彼らはやがてこの種の発言をウォルトに対してしないようになった。ウォルトの提案が実現不可能だと言いだしたある技師に向かって、彼はこう言い返したものだ。

「やってもみないうちにあきらめるほど、君はばかじゃないだろう。僕たちの目標は高いんだ。だからこそ、いろんなことをやり遂げられるんだ。さあ、戻ってもう一回やってみてくれたまえよ」

ウォルトのそばで仕事をしていたスタッフは、「これはできない」という言葉をぜったい使わないことを学んだ。「そうだなウォルト、これはちょっとむずかしいかもしれない。というのは―」という言い方が正解なのであった。しかし、エンジニアがありとあらゆる可能性を試しても解決策がどうしてもない場合には、ウォルトもそれが無理であることを認めた。』

『スプリンクラーや消火栓の水の圧力をかけるために給水塔がぜったい必要である。というのがエンジニアたちの共通見解であった。が、それを自分に面と向かって主張したエンジニアを、ウォルトはもうすこしで部屋から力ずくで追い出すところであった。パーク内に目ざわりな給水塔がそびえている光景など、ウォルトには断固として許せなかったのである。彼がどうしても別の解決策を見つけるよう言い張って譲らなかったので、エンジニアたちはパークへの水の取り口を数か所に分けて設け、水圧を高く一定に保つ工夫をした。当然ながら、コストはそれだけよけいにかかった。パーク周辺の電線を見えないところに移動させる工事にしても同じだった。ウォルトは、自分が作りだそうとする幻想の世界を少しでも乱すものには我慢できなかったのである。』

『ウォルトは設計担当者に対し、自分が建築上の大傑作を要求しているのではないことを繰り返し強調した。ある設計者に彼はこう語っている。

「君にようく考えてほしいことはね、いいかい、君が設計したものは、お客さんが中を歩いたり、乗ったり、利用したりするんだよ。僕は、そのお客さんたちに笑顔を浮かべながらパークの門を出ていってもらいたいんだ。それだけは頭に入れておいてくれたまえ。設計者の君にこの僕が望むことは、たったそれだけなんだから。』

『ディズニーの幹部たちは、毎日のパーク運営をいかに進めていくかで頭がいっぱいであった。ある幹部が、パークの経営を任せる企業の候補を二つにしぼったことをウォルトに報告すると、ウォルトは尋ねた。

「そんな会社が、どうして必要なんだい?」

「パークの運営ですよ。我々は遊園地の経営なんて経験がないですからねえ」

「まず言っとくが、これは遊園地じゃない。それに、僕らだってほかの人間と同じようにディズニーランドをうまく運営できる。要するに、やる気があって、エネルギッシュで、愛想がよくて、向上心のある従業員さえいればいい。もちろん失敗もするだろうけど、その失敗から学んでいけばいいんだ」